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孔子について考える [中国古代史]

このところ、殷・周から春秋へとあれこれ読んでいて、ふと、思ったこと。

孔子は「15にして学に志す」というけれど、その「学」ってなんなの?

当時、郷学という学校制度はあったらしいんです。これは大体において士クラスの若者を教育するものだったらしいです。
当時の身分制度というのは、諸侯・卿・大夫・士という順序で、士の下はもう庶であります。
士というのは、たぶん、土地もちの最下層ですな。
士というから、戦闘できる層であることは間違いないと思います。
当然、この郷学において、射馬と礼儀作法を教わったとは思いますが、果たして、文字を学んだかどうかというのは、実はよくわからないんですね。
というのも、当時、文字というものは、ようやく周王室の独占がとけて、諸侯に広まってはいるものの、文字の著しかたは1に青銅器への鋳造であり、2番目に竹簡に筆書きでありましょう。で、青銅器への鋳造は、これはもう周の技術をもった青銅器鋳造職人でなければできないし、竹簡に筆書きするのは「史」と呼ばれる特定のグループで、これは世襲制だったと思われます。
たとえば、会盟には必ず史が参加しているんですが、この史というのは、会盟に参加する諸侯が連れてくるらしい。この史が参加してなくてはならないのは、盟書を書くまたは刻むために必須だからです。
こういうことをしている、というのは、つまり、諸侯は文字の読みはとにかく書きのほうはできなかったと推定できるわけです。
いわんや、卿・大夫・士においておや、ですな。
いや逆に、諸侯はとにかく、実務官僚である卿以下は文字の読み書き必須であったかもしれませんが。
それで、まぁたとえば郷学で文字の読み書きを教えたとして、孔子はこの郷学で学んだのだろうかというと、かなり否定的なわけです。
まず、彼は父の名前はわかっているけれど、その父と母は「野合」して彼が生まれた、とものの本(なんのことはない、『史記』ですけどね)に書いてあります。
そして、父は彼が生まれてすぐになくなり、孔子は父の墓を知らなかった……つまり、父を祀ることができなかったわけです。
母がなくなった時も、仕方がないので町でもがりをして、あとで父の墓を教えてもらって合葬したというのですから、かなり紆余曲折があったようです。
孔子の父という人、ないしそれより前の人かもしれませんが、孔氏は宋の出身で、『史記』は、そもそも宋の国君になるべき人が家を兄弟に譲って家臣になったというから、それだと卿身分ですよね。まぁ、このへんは眉唾ですが。それに流れ流れて魯の国に居ついた以上は、孔氏の直系の子孫かどうかもわからないわけです。
そして、たとえ孔子の父が宋の大層な家の出身であったとしても、おそらく私生児であり、かつ、父が生後すぐになくなって墓の場所もわからなかったというところから考えて、孔子が父を通じて宋の礼法に通じていたとは思えないわけです。
宋といえば殷の末裔ですから、もし宋の礼法に詳しいとすれば、周より以前の礼法が伝わっている可能性はあるわけですが、実際のところ、孔子が父親からそれを学んだという記録もないし、できたとも思えないわけですね。
そしておそらく母一人子一人の暮らしは豊かではなく、ましてや後ろ楯もない状態で、読み書きを学んだり郷学にいったりするということは、かなりむずかしかったのではないかと思われるわけです。
ましてや煩雑な礼法について、それも夏・殷・周三代の礼法について「知っている」という状態になるということは、一体どんなものなのか?
そもそも礼法について記した書物などというものは、当時、ないわけですよ。
書物といえば当時は竹簡を綴じたものであって、大変に貴重だし、そう簡単に持ち運びどころか目にすることもできなかっただろうと思います。
じゃ、どんな人間が読み書きできて、それまでに蓄積された竹簡に目を通せるかというと、やっぱりそれは「史」だろうなぁと思うわけですよ。

『史記』では、孔子は若いころに「季史」であった、と書いていますが、この「季史」に冠しては、『孟子』の言及から「季吏」だとする説のほうが多いのですが、私は文字通り「季史」すなわち、季氏の史(ふみつかい)だったのではないかと思うんですね。
史であれば、否応なく文字を使えなければならないし、当然読み書きができるし、過去に蓄積された竹簡のたぐいを参照できます。
というか、その手の竹簡の数は決して多くないし、一定の場所に集まっていて、一般の人間が触ることはできないはずです。燃えてしまうと大変だから、耐火構造の建物に厳重にしまっているでしょうからねぇ。
でも、そうした竹簡類に、孔子が通じていたという礼法について書いてあったかというと、これまたけっこう疑問なんですよ。
だって、そういうものに書いてあれば、誰も孔子に訊ねなくても読んだ人がわかるはずでしょう?
孔子に訊ねないとわからないということは、少なくともまとまった形で、その気になったら参照できるというものではないような気がする。
じゃ、どんなものを参照して、孔子は礼法の勉強をしたのだろうということになります。

これについて、相方がはっと気づきました。
「もしかして、青銅器の銘文を読んで、学んだのではないか?」と。
周代の青銅器の銘文には、よく、誰某の祖先が周王の誰某に仕えて功績があり、表彰された。いま、汝も祖先のように周王に仕えて、忠勤に励めよ、云々とあります。こうした銘文を読んでいくと、周代特に前半は国王の権威があまねく諸侯に及ぼされて、諸侯は周王の徳にすがっていたように見えます。ましてや孔子のいた魯の祖先は周公旦ですから、周公旦にまつわる銘文のはいった青銅器があれば(たぶん、あったと思います)そこで周公旦の事跡も学べたはず。
というか、孔子があれほど周公旦周公旦と言うのには、なんらかの理由があるはずなんですね。
なんといっても、孔子は別に魯の君主の家柄ではない。周公旦は彼の祖先ではないのです。
もし彼の祖先が本当に宋侯の家柄ならば、彼のもともとの姓は子姓のはずで、いっぽう、周公旦は周王家と同じなので姫姓です。
どう考えても孔子が、礼の創始者としての周公旦をでっちあげて持ち上げる理由にはなりません。
が、なんらかの形で孔子は、周公旦という人物にものすごい感銘を受けていて、周公旦こそが周の礼法を制定し、天下にあまねく普及させたとのだという妄想(あえて妄想といいます)にふけるようになります。
これは彼が、周公旦の事跡についての銘文を読んだのではないか、というのが、こちらの妄想というわけ。
えぇ、ただの妄想なんですよ。


殷王朝の人身犠牲 [中国古代史]

殷代も後半になって、鄭州商城・偃師商城が放棄され、殷墟にうつる前あたりと思われる小双橋遺跡で、犠牲と思われる膨大な人骨が発見されたこともあって、殷王朝の祭祀は、この殷墟遷都前後から大きく変化したのではないかと推測される。
盤庚の時代に殷墟に移ったものと推定はされているが、そのあたり、細かい年代は当然のことながら分からない。それ以前に人身供犠が積極的に行われたかどうかは、まだ未発見である可能性も否定できない。
とはいえ、鄭州商城も偃師商城もかなり発掘が進んでいて、重層的な宮殿遺構なども把握されつつあるのに、この手の人身犠牲の報告が少ないということは、ちょっと注目に値するかもしれない。
すでに新石器時代後半から、首長のものと思われる大型墓には殉葬者がでているから、そういう意味での人身犠牲は物珍しいわけではない。
が、小双橋にみられる人身犠牲は、頭を切り落とされているところに、大きな違いがある。のちの殷墟での発掘状況などをみると、頭が切り落とされた場合、頭蓋骨はまとめて別のところに葬られているようなのだ。
そして、この頭を切り落とすという状況は……やはり、どう考えても相当におどろおどろしく、凄惨なものだっただろう。

とはいえ、古代の祭祀においての凄惨な場面というものを、現代の感覚で再現するのは危険が多い。
この手の頭蓋切断があるために、犠牲者は罪人や奴隷だっただろうということがしきりに言われているが、果たしてそうなのか、きわめて疑問が残る。
というのも、これらの人身供犠における「頭」は、先王に捧げられるものだったからだ。

殷の祖先祭祀において、「先王」すなわち「父某」が重要らしいのは、甲骨卜辞からも推測できるのだが、その理由というのは、先王が「祟る」からである。
この祟りを鎮めるために、人間の頭を必要としたらしいのだ。
そして、この頭を切り落とすために「鉞(えつ)」という特殊な武具を使う。
口を大きくあけ、大きな目で睨んだ、人面や獣面をあしらった青銅製の鉞がいくつも出土しているが、これが首を切り落とすための特殊な武具であり、しかもこれを持つことは王権の象徴なのだ。
つまり、首を切り落とすという行為は、王が王であるために付随する特権なので、その特権のために首切られる人間が罪人や奴隷であるという発想は、ひとまず棚上げにしたほうがいいんじゃないかという気がするのである。

犠牲を捧げるというのは、神なり天帝なり祖先なりに、なんらかの見返りをもとめて贈り物をすることである。
この贈り物は、より尊い貴重で珍奇なものであるほうが、贈られる側が喜ぶことは想像に難くない。
奴隷や罪人であるよりも、著名な人物、力のある人物、あるいは、それこそ王に近い存在であるほうが、よりその犠牲は尊いものになるのではないだろうか。
たとえば、稲作において、その年の一番最初にとれた稲穂を神に捧げるように、また遊牧民族の中で、その年生まれた仔蓄の中でもっとも肥え太ったものを神に捧げるように、犠牲には、特殊性(新しいとか、一番良いものであるとか)が必要である。
それは、罪人とか奴隷ではないのではないだろうか、と思うわけだ。

もちろん、殷墟の王墓とおぼしき発掘現場からでてくるおびただしい殉葬者の比較から、腕を縛られ首を切られたいくつもの殉葬者が、美々しく着飾り馬に乗り、または馬車を操って、首をつけたまま埋葬されている殉葬者より尊いものだとは思えない、ということは言えるだろう。
首を切られた人骨がいくつも投げ捨てられるように重なっている犠牲坑などは、犠牲者の身分を云々できるとは思えない。
それでも武王が焼死した紂王に矢を放ち、剣で叩き、鉞で首切ったという伝説から想像するに、王者であろうとも首を切られることは間違いがなく、その首は旗に晒されたと書かれているが、それもまた天への犠牲であろうことは想像に難くない。


殷王朝の支配体系 [中国古代史]

『史記』に描かれている夏という王朝は、まだその実態というものが考古学的に証明されていないのですが、殷に関しては殷墟の発掘で、『史記』に記載されている王に相当する名前を刻んだ甲骨卜辞が山のように発見されているので、存在したことは間違いがないわけです。
しかも最近では、たぶん、夏の王朝があっただろうと思われる偃師県二里頭のすぐ近くにできた偃師商城と、鄭州市の鄭州商城が、殷墟より前、二里頭晩期に並行する形で建設されて、どちらも栄えていたらしいことが、考古学の発展で分かってきています。
そのうえ、この偃師商城と鄭州商城は、殷墟が築かれるより前に、ばたっと閉じられてそのまま放棄されてしまい、小双橋ってところに一時的な都らしきものが築かれたようなのですが、これまた殷墟が建設される頃には放棄されているんですね。

つまり

二里頭(夏の遺跡)→→→→放棄
□□□□□□□□□□偃師商城→→→放棄
□□□□□□□□□□鄭州商城→→→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□小双橋→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□殷墟→→→→殷末まで。
(□は、空白とみなしてください。よろしく)

という流れらしいですよ?
この二里頭とそのすぐ近くの偃師商城、それに鄭州商城とその近くの小双橋は、いずれも黄河沿岸の地の利のよいところで、鄭州は現在でも河南省の省都です。二里頭はそのちょっと西のあたりで、洛陽よりはずっと東ですね。
この洛陽の近くには、孟津(もうしん)といって、黄河を渡る有名なポイントがあったようですが、殷代にはまだ都城が築かれるってことはなかったようなのです。
ということは、殷の支配は洛陽までは及んでなかったって感じでしょうかね。
もちろん、洛陽よりはるかに西の、現在は西安と呼ばれるあたりに、周の一族が根拠地をおいていて、周が殷の部下だった(周西伯などと呼ばれていたようです)ことから、そこまでは殷の支配範囲だと見なすことも可能です。
が、そのころの周って、半独立国っぽい(だからこそ、力を蓄えて、のちに殷を打倒することができる)ような感じもするので、勢力圏ではあっても支配圏ではなかった可能性があります。

実際、勢力の及ぶ範囲と、支配の及ぶ範囲っていうのは、違うだろうというのが、昨今の意見のようです。
つまり、殷代の青銅器の分布をみますと、かなり広範囲に広がっているので、交易があっただろうことは間違いがないわけです。交易というのは、たいがい、これを渡すからこれをよこせってわけで、このやりとりがうまくいかなければ武力で討伐ってことになります。
たとえば、殷からみて西南のあたり、東夷と呼ばれる山東地方や、淮夷と呼ばれる淮河流域あたりには、殷から人方と呼ばれる地域があって、殷で「方」と呼ぶのは、一応、身内扱い(蛮族じゃないよ、ぐらいの意味ですかね)なんですが、何かっちゃ貢献してこなくなるんで軍隊を送っています。
この地域からは、重要な亀甲が産するので、どうしても欲しいんですが、なかなか入手できないみたいなんですよ。
王権が盛んで威力のあるときは、まとめて300枚とかちゃんと奉献してくるんですが、ちょっと力が弱くなると、たちまち送ってこなくなるみたい。
勢力範囲っていうのは、そういうあたりなんでしょうね。
これが、たとえば南は長江(揚子江)中流域の、いまでいうと武漢市のあたりまで。ここには盤龍城という城址遺跡があって、ここから殷の青銅器とほぼ同じものがでていたりして、また土器の編年もその周辺とは違って完全に殷(二里崗式といいます)のものなのだそうです。いわば、殷の出先機関で、そこには生活様式を殷の中央と同じようにしたがる支配者が住んでいたっぽいのですね。
この地域の南側には著名な銅山がいくつもあって、しかも盤龍城の周辺では銅を加工して青銅を作っていたらしい鋳造跡が見つかっているのです。
しかし、青銅器は作っていない。あくまで、銅に錫や鉛を混ぜて、青銅という合金の形にして、殷の中央に送る二次加工の工場ですね。それがあって、その青銅を殷の中央で青銅器に加工していたようなのですよ。
とすると、重要な物資を集積するための場所に、殷の王族っぽい人間が派遣されていて、そこを管理していた構図なんかがみられます。
が、この盤龍城は、殷墟が作られる前に突然滅びて、放棄されちゃってるんですね。
そのあと、殷の中央から新たに派遣されるってことはなかったみたい。

同様に殷の青銅器が分布している範囲というのは、北は内蒙古自治区まで広がっています。南は山東半島の手前あたりまででしょうか。決して広くはないけれど、それでもかなりの広範囲といえます。
ただ、北というのは、もともと、以前から文明が栄えていて、たぶん、文字も北からやってきたっぽいし、騎馬民族が往来していて、文物の流通も盛んだったようなのです。
殷の王族も、北東方向からやってきたっぽい感じがしますしね。
その北東部分、遼西とか遼東とかいうあたりと、黄河上流域の遼寧とか内蒙古あたり、さらにシルクロードの入り口に相当する青海・甘粛あたりは、新石器時代後半から、文物の行き来が盛んで、一大交易ネットワークができあがっていたようなのです。
しかも銅も青銅も青海・甘粛あたりからやってきたみたいだし、遼寧には甲骨文字に先んじる岩画文字があったという報道もあるし、遼西あたりにはかなり古くから玉工芸の栄えた紅山文化というものがあって、そういう、富の集積を前提とする文明は、北方でもかなり広がっていたようなのです。

そして南方には、稲作で栄えた文明が長江中流域にも下流域にもあったらしい。
そういう地域の中には、殷王朝となんらかの接触があった地域もあるし、単に文物の交換だけをやっている地域もあったようです。
そういうのを、勢力範囲というのかどうかもむずかしい。
そのへんの地域には、すでに城址遺跡がいくつも発見されていて、お墓の埋葬具合とか、副葬品とか、あるいは祭祀のための特殊な場所とか、そういう考古学的発見から、原始国家に相当するものができあがっていたんじゃないかと考えられているけれど、文字資料がない。
だから、文字資料ででてくる春秋から戦国にかけての「楚」国なんてのは、本当に蛮族扱いもいいところなのですが、実際には相当な国力があって、栄えていたようなのですね。
そのあたり、殷王朝の一元的支配なんてのは、机上の空論なわけでして、ただ、文字資料を持っているがために実在が確認できる、というだけのことなんです。

じゃ、実際の殷王朝の支配範囲ってどの程度なのか、それは何から分かるのか、そのあたりはまた、項目を改めたいと思います。


殷周と春秋戦国の違いって? [中国古代史]

よく、夏殷周を理想の時代だったという書き方があるわけですが、これはもともと、春秋から戦国にかけて、諸国乱立してお互いに攻め合い、仁義もへったくれもあったもんじゃない状態の時に「昔はよかったなぁ」という感じで書かれているようです。
たしかに、春秋から戦国にかけての世の中というのは、弱肉強食の世界そのもので、そこに住んでる人たちは、いつどこから戦争しかけられるかって、戦々恐々としてたんだろうなぁという感じはあります。
でもその前はじゃあ理想郷だったかっていうと、そうでもないような気がしますよ。

というか、夏とか殷って、本当に狭い範囲しか支配してなかったから、夏だと春秋戦国の弱小国ぐらい、殷でも強国程度の大きさだったようなんですよね。
で、その回りの異民族と言われる国々とせっせと戦争していたわけです。
異民族で東夷北狄南蛮西戎で、だから「征伐」だなんて言い方していますが、なんのことはない、単に戦争しかけてうまく取れれば自分のもの、ダメなら引き返してきますって、春秋戦国となんら変わりはないように思います。
周になると、封建制(←この言葉にはひっかかりを感じるんですけどね)でもって、諸侯があちこちの都市国家に散らばって、それで支配範囲が広がったかっていうと、単に周の認識で「同属(同族じゃないのね)」と見なされるグループが増えたというだけじゃないかしら。
そのあちこちの都市っていうのは、実は新石器時代の後半には作られていた城址をもとに城壁をさらに高くして領主がでんと居すわるって感じなんですよね。
たぶんそれ以前は、こういう都市国家以外の、特に定住地を持たないグループがいたんだけど、殷から周へと広がっていく過程で、こういうグループがどんどん追い出されていって、都市が回りの農村を支配する形ができていくんだと思います。(このへん、西ヨーロッパの中世と似てるかも)
これは、なんというのかなぁ、単にみえないものが見えてくるようになるってのも、ひとつあるんじゃないかと思いますよ。
というのも、殷の時代には、すでに甲骨卜辞ってものがあって、文字は使われていたのだけれど、それは殷王朝内部だけの独占で、文字を使って書を残すという発想ではなかったのですね。だから、外へ向かって文字でもって宣言するっていうのは、殷にはないわけです。
これが周になると、青銅器に金文を鋳込むという形で、文字を使った宣言が、王朝外部に流れていきます。が、文字を鋳込む技術は周王朝が独占していたので、それ以外のところが真似しようと思っても、うまくいかなかったんですね。
でも、周王朝が没落していくと、当然、青銅器鋳造にたずさわる職人たちが四方八方に広がっていくし、文字が分かる人間も広がっていく。そして、諸侯同士で盟書を交わすのに、文字を使うようになってくる。王権に力がなくなるので、勢力均衡した諸侯同士の間で、何をどうしたという内容を文字で残さないといけないわけです。
これも、諸侯と、実際に文字を使って書いたグループはどうやら別らしい。つまり、もともと周王朝がかかえていた文字を書けるグループっていうのが流出していったってことですね。
この背景には、鉄器が普及して農業生産が画期的に増えて、あわせて開墾ができるようになって、土地も広がり、諸侯が自前で力を貯えることができるってのがあるようです。
その一方で、文字はまだ、使える人間が限られているわけで、そうなると、王も含めた領主の力のおよぶ範囲というのは、どうしても限定されます。というのも、文書で命令が出せないので、あまり遠方にいる配下は、いつ独立したり寝返ったりするか、わかんないんですよ。把握できない、ともいいます。理想的なのは、自分の居住する都市から、馬で一日でいける範囲ですね。このぐらいは文字がなくても十分に支配できます。
実は夏王朝の支配範囲がこの程度だったんじゃないか、と言われてます。
殷はもう少し広いようですが、そのぶん、支配が散漫になって、大きくなったり小さくなったりとしょっちゅう支配範囲が変わっていたみたいなんです。
周になると、諸侯って意識がかなりできてきて、これが王の支配に属しているうちは、それぞれの諸侯の支配圏も含めて王の支配圏って言えるんですが、王権は簡単に崩れますから、そうなったらそれぞれの諸侯が半独立するのは当たり前なわけです。
独立させないためには、諸侯に王のもとにやって来させて、王の権威を見せつけ、ひれ伏させ、かつ、褒美を与えて王に服属してるといいことあるよ~と、飴と鞭を使い分ける必要があるわけですが、そのためには、諸侯が王のところにやってこれる距離にいないといけないわけです。それが広がりすぎちゃうんですね。
結果、やっぱり都市諸侯が半独立してそれぞれの地域を支配するわけで、それって実は、夏でも殷でも同じだったんじゃないかなぁって感じです。

以前は、中国の古代といえば黄河文明で、黄河の中流から下流にかけての地域で文明が発達して王国ができてきたって考えられていたわけですが。
現在では、黄河流域にまさるとも劣らない文明が揚子江(長江)流域にも広がっていて、しかも長江流域は稲作農業ですから生産性も高く、それぞれに国家らしきものはできあがっていたようなのです。
すでに殷代には、文明から隔絶していたと言われていた四川盆地にも高度な文明を持つ国家の萌芽らしきものができあがっていましたし、長江中流域には楚のもとになるグループが、下流域には呉越のもととなるグループが、それぞれ城壁をめぐらせた都市をいくつも作っていたわけです。
そこからでてくる出土品も、たしかに夏や殷の影響は受けているものの、地方性も打ち出していて、技術的にも素晴らしいものがあります。ということは、生産性が高くて、余裕があったわけですね。
そういうグループが、たまたま文字を知らないがために、史書にでてこなかっただけ、とも言えるのです。
たまたまでてくるとしたら、夏なり殷なりからみた「蛮族」として一方的な征伐の対象として描かれていたわけですが、実態は違ったんじゃないかなぁって思います。

それが、把握できる範囲が広がって、文字の使用も広がって、お互いの行き来が明確になってくるのが、春秋戦国時代なんじゃないかな、と最近思ってます。


妲己考(その2) [中国古代史]

妲己について、いったいこの人は何者だったのか、そこらへんをもうちょっと突き詰めてみたいと思います。
といっても、どこまでも想像にすぎないわけですけどね。

殷王朝の王さまの名前には、十干が含まれる、ということになっています。
この十干というのは、実は十個の太陽らしいんですよ。
王さまの名前は、史記にでてくるんですが、そのあと、殷墟で発掘された甲骨文字にも同じようなものがあって、ほぼ史記にでてくる人物が実在したらしいということになっています。
殷墟の甲骨文字というのは、武丁という、殷代でも後半の王さまからあとに使われているものらしいんですが、先祖の祭祀を細かくやっていて、それをいちいち記録に残しているので、過去の王さまの名前まではっきりわかるんですって。
いや~、まめだったのね~。
17000あまり発掘された甲骨のうち、解読されたのは二割にすぎないそうですが、それでも3400……すごい分量の甲骨に刻まれた記号が、漢字として解読されるというのは、すごいことではないでしょうか。
それはさておき。

史記に書かれた王様の名前を、甲骨文字から判別している名前の対比を含めて、羅列してみます。

天乙(てんいつ)またの名を成湯、湯王、名は履。父は主癸。
外丙、卜辞では卜丙。
中壬、または仲壬。卜辞には登場しない。
太甲。
沃丁。名は絢ともいう。卜辞には登場しない。
太庚。太康ともいう。名は辨ともされる。
小甲。名は高ともされる。
雍己。
太戊。
中丁。卜辞では仲丁とされる。
外壬。卜辞では卜壬とされる。
河亶甲。名は整ともいう。卜辞では戔甲という。
祖乙。名は勝。卜辞では、仲丁の子とされる。
祖辛。
沃甲。開甲ともされる。名は踰ともされる。卜辞では羌甲とされる。
祖丁。卜辞では且丁ともいう。
南庚。南康ともいう。
陽甲。卜辞では象甲とされる。
盤庚。
小辛。名は頌ともいう。
小乙。名は斂ともいう。
武丁。子に祖己、祖庚、祖辛がいて、卜辞ではこの順に即位したことになっているが、史記では祖己は即位していない。
祖庚。名は躍あるいは曜ともいう。
祖甲。名は戴ともいう。
廩辛。あるいは馮辛。名は先ともいう。
庚丁。卜辞では康丁、あるいは康且丁ないし康祖丁とされる。
武乙。卜辞では武且乙、あるいは武祖乙ともされる。
太丁。あるいは文丁。卜辞では文武丁とされる。
帝乙。卜辞では文武帝乙とも。
帝辛。名は受とも。紂王である。

これらの王さまの名前をみていると、なかなか面白いことがわかります。
この名前、河亶甲を除いては基本的に二字です。それ以外に名前があるというケースもあります。それと卜辞では別の呼び名になってることもある。
ともあれ、ある言葉+十干の一つというのが、基本の名前のようです。
で、ある言葉というのは、祖とか太とか沃とか小とか、いくつか重なる言葉があるみたい。

通常は、十干のほうに注目して、殷の王族は実は10のグループからなっており、そこから王さまを出したので、そのグループ名がついたのではないか、と言われております。
でも本当にそうなのかなぁって思ったりもします。
じゃ、どうして、祖という名前のつく王さまが何人もいるんだろう?
十干の場合は、すでにこの時期に干支が制定されてますから、たとえば生日、あるいは王位についた日の十干を名前にするってこともあるかもしれないと思うのです。
十干を頭にした10の氏族がいた、というのは、なんかできすぎな気がするんですね。

で、頭につくほうを、いわゆる姓と考え、その下に十干を表す言葉がきて、名はほかにもある、というふうに考えるとすると、ちょっと面白いことがあるのです。

それは、卜辞でいうところの羌甲という王さまです。
この王さまについての事歴はほとんどなにも伝わっていません。
じゃ、なにが面白いかというと、羌というのは、よく甲骨文字ででてくる名前だからです。
羌族、といいます。今日まで残っている少数民族です。
もともとは中原のあたりにもいっぱいいたらしい、どうも羊を飼っていた種族らしいのです。
羌というのは、羊の下に人と書きますからね。
これが羊の下に女だと、姜でして、この名字の家というのものちのち重要になります。
で、問題は、甲骨文字においてよくこの名前が使われるのは、「生贄として捧げるのに吉か」という内容が多いのです。
生贄すなわち犠牲です。神の意にかなうために、人間や動物を殺してそれを煮て、神に捧げるという祭祀を、殷の王朝はそれはそれは頻繁に行っていたようなのです。
そして、しばしば、人間については「羌」を捧げることが多かったようです。
そんな「羌」の名前がついた王さまがいる……。
羌族出身の王さまだとしたら、自分の族民が犠牲に使われているわけですよね。
これはどういうこったいってのがひとつ。

それとは別にいくつか面白いのは、この姓に相当する文字で、史記の文字と卜辞の文字がちがう場合。
文字のヘンをはずして旁だけが残る場合。あるいは旁だけの文字にヘンをつける場合。
外と卜、仲と中、祖と且という感じ。
これは読みが同じだったために、ちがう漢字が使われたのかもしれないし、そうではないのかもしれません。
が、羌と姜みたいに、羊の部分が同じで読みも同じ「キョウ」だと、もしかすると同族だったりすることもあるかも?

てなあたりから、想像は飛躍します。
妲己も、妲+己で、二つ目は十干のひとつになってます。
だとすると、妲は彼女の姓なのかもしれません。で、女篇がついてますが、女を取ると「旦」になります。
これが彼女の族名かもしれない。
とすると。
もしかして、周公旦というのも、同じ旦族の人間かもしれないのではないか、と。
周公っていうのは、周の武王の弟とされていますが、本当に血族だったのか、かなり疑問が残るのです。
旦は彼の諱だと言われていますが、もし武王と同族ではなかったとしたら、姫姓ではなく旦姓であった可能性もあるかもしれません。
いや、そもそも、周王と周公と並び立つって、どういうことなのよ?と突っ込みたいですよね。
ま、それはともあれ、周公旦がいないと、武王は殷に勝つことができなかったっぽいのです。
で、彼がもしも旦族の族長で、妲己とは同族だったとして。
紂王に加担する一族の女族長っぽい妲己を見限って、周王に寝返ったとしたら……?

紂王の最後、妲己はその妹とともに王宮にあるらしいのですが、なにもしていません。
かといって逃げ出してもいない。紂王に従って戦にでるわけでもないらしい。
これはどういうことだろうと思うわけです。
そのあと、自殺したあとも、武王に呪術で封じ込められるほどの女性です。殷の武丁の奥さんである婦好は自分の土地があり、自分の兵があり、それを率いて戦に従事したと言われています。
妲己もそれぐらいの力はありそうな気がします。(武王のお父さんの文王は、紂王に幽閉されて、土地や家畜を献上して許してもらったという話なのですが、その際、妲己に賄賂を贈って紂王に取りなしてもらったという説があります。単なる愛妾ではなく、相当に有力な存在だったのかもしれないのです)
だとすると、本来なら自分の民を兵として率いて、紂王とともに戦うような存在だったかもしれない。
だけど、周公旦がその民ごと、武王に寝返っちゃったとしたら、妲己には、自ら使える兵がなく、そのために王宮にとどまらざるを得なかった……かもしれない。
でも、紂王と妲己は刺し違えて死んだわけではないのです。紂王は自ら玉を纏い、焼身自殺しています。妲己のほうはそれを聞いて、首をくくったらしい。
このへん、よくわかんないんですけどね。
妲己には妲己の立場があって、紂王の言いなりというわけではないのだけれど、やっぱり紂王に殉じているわけですね。
紂王も、実際には放埒にふけっていたわけではなく、あちこちに討伐にいったり、武王との戦いも一年以上にわたったということですし、かなりがんばっていたらしいんです。
でも、力及ばなかった。
なぜ、天命が、殷の王家から、周の王家に移ってしまったのか。
これはこれで主要な問題なんですが。
周王っていうのは、そーとーな田舎者で、結果として殷の祭祀をそのまま踏襲せざるを得ないという雰囲気なんですが、ではどうやって、殷の祭祀を踏襲したかっていうと、殷の祭祀に通じている者を味方につけるしかないわけです。
それが周公旦だったんじゃないか、という大胆な仮説を出して、さらに周公旦と妲己は同族だったが、旦が妲己を裏切ったのではないか、というこれはもう妄想ですね。
ま、そんなことを考えているわけです。


妲己考 [中国古代史]

妲己(だっき)といえば、悪女の代名詞です。
「封神演義」になると、もう、妖女ですね。
案外この、妖女説、近いような気もするな、という話を家人としておりました。

実際に、殷の最後の王さまの紂王が、妲己におぼれて国政を省みず、酒池肉林でひどいことした、かどうかは大変に疑問である、とみなさまおっしゃいます。
えぇ、滅びた王朝の最後の王さまというのは、たいがい、ワルモノで、だから、滅ぼした側に正義というか大義があるんだ、という展開は、史書を読んでいればたいがい目につくところ。
逆にいいますと、だから、武烈天皇がいろいろと悪事をしちゃったという展開は、つまり、継体天皇による簒奪だと思われるわけですよ。

さて、それでは実際、紂王ってどんな人だったの?という史実に迫るのは容易なことではないのだけれど、妲己に関しては、ひとつ、面白い事象が残ってます。
それはほかならぬ「史記」に書いてあることなので、ここは抜き書きしてみましょう。

まず「殷本紀」から。定本はちくま学芸文庫の「史記」(小竹文夫・小竹武夫訳)とします。

「周の武王は、そこでついに諸侯を率いて紂を伐った。紂もまた兵を発して牧野に防いだが、甲子の日に紂の兵が敗れ、紂は逃げて鹿台に登り、宝玉で飾った着物を着て火に飛び込んで死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗の上にかけ、妲己を殺し、――(以下略)」

これによると、紂王は自殺して、武王はその頭を斬って、白旗の上にかけたあと、妲己を殺したことになっていますが……。「周本紀」によると。

「紂王は走って引き返し、鹿台の上に登って、珠玉を身につけて自ら火に焼けて死んだ。――(中略)――ついに紂王が死んだ場所へ行き、武王は自ら弓を引いて、三発射ると車を降り、軽呂(けいろ)の剣で屍(しかばね)を撃ち、黄鉞(こうえつ)で紂の頭(こうべ)を斬り、大白の旗の先にかけた。ついで紂王の愛妾二人のところへいくと、二女はくびくくって自殺した。武王はまた三発の矢を放ち、剣で撃ち、玄鉞で斬り、その首を小白の旗に懸けた。――(以下略)」

この周本紀による二人の愛妾の一人が、妲己かどうか、というのが今回のポイントです。
紂王には何人もお妃がいたのだろうと思います。その中でも、特に妲己を寵愛したと言われています。
が、「殷本紀」では妲己は周の武王が自ら殺したことになっている。
「周本紀」で自殺した愛妾二人は、妲己ではないのだろうか、ということになります。
じゃあ、妲己じゃないとしたら、周の武王は、どうしてこの二人の愛妾を、紂王と同じような目にあわせたのか。

死者を鞭打つという言葉がありますが、焼身自殺しても身体が残ってしまうと、のちのち辱めを受けることになります。
紂王の場合、
1.三発の矢を車上から射かける
2.車を降りて、剣で撃つ(これは叩くという意味合いでしょうか)
3.黄鉞(黄色といいますが、これは黄金のようにかな光りしてるんじゃないかと思います。当然、青銅製だろうな)で首を斬る。
4.大白の旗に首を懸ける。
という手順ですね。
で、二人の愛妾はどうかというと、首をくくって自殺しているわけですが、これに対しても
1.三発の矢を放ち
2.剣で撃ち
3.玄鉞(これは黒い鉞ですね)で首を斬り
4.小白の旗に首を懸ける
とあります。
剣の名のあるなしの違い、黄色と黒の鉞の色の違い、白旗の大小の違いはありますが、手順は同じです。
つまり、二人の愛妾は、王と同等の辱めを受けたことになります。

殷の次の周で、西周から東周に遷都し、戦国時代にはいるきっかけとなった幽王という王さまがいます。この人にも、褒姒という笑わないお妃の事例があって、そのお妃を笑わそうといろいろバカなことをやったあげくに滅ぼされたということになっていますが、さてそのあとこのお妃はどうなったかっていうと、幽王を滅ぼした申侯(この人の娘が幽王の正妃だったらしい)が虜にして連れ帰ったと書いてあるんですね。
まぁ、普通、滅ぼされた王さまの愛妾ってのは、そういう扱いでしょう。あるいは自殺したり、首切られたとしても、そのあと、打ち捨てられるのが普通という気がします。
王さまと同じような死後の辱めを受けるという例は、ほかに見ない気がします。

これはどういうことなのか。
まず、この愛妾のうちの一人が妲己だったとしましょう。(いや、妲己でなくてもいいんだけどね。でも、名前が残るということは、どちらにしても有名であったことは間違いないわけだから、妲己でいいと思うわけです)たぶん、もう一人は妲己の姉妹だと思います。
さて、この二人が、紂王と同じような目にあったということは、紂王と同じような悪事をしたということなのか、それとも……。

三発の矢を射かけ、剣で撃ち、鉞(まさかり)で首を斬ってその首を旗に懸ける。

この一連の動作に、呪術的なものを感じるのは、私たちだけでしょうか。
剣は名剣、鉞もそれと知れたもののようです。
当然この剣も鉞も、当時のハイテクたる青銅製の、燦然と輝く武器だったと思います。
青銅製の鉞(えつ)は、殷代のものがいくつも出土していますが、これがまたおどろおどろしい文様なんかがついていて、コメントにも「犠牲の首を斬るためのもの」とあったりします。
鉞で首を斬るというのは、単なる首切りとはちょっと違うようなのですよ。

紂王が行ったとされる酒池肉林。
これは、殷の祭祀に照らして考えると、あながち放埒ではないのかもしれません。
何しろ、殷墟からでてきたおびただしい青銅器の大半は、(まぁそれが墓の副葬品ということもあるけれど)彝器(いき)と呼ばれる祭祀用のものなんですね。
これは、クロキビで作った酒(当時、一番上等だったらしい)をおさめる壺や、これに鬱という草の香りをつけるための壺、さらには酒を温める容器や、酒を注ぐ容器など、酒だけでも何種類もあるのです。
そして、のちに「鼎の軽重を問う」で有名になった、天命を受けた印とされる鼎(てい)と呼ばれる容器、これは三本足の円筒状のものと、四本足の四角い箱型のものがあるんですが、これはどちらも犠牲の肉を煮るための鍋だったことが判明しています。
犠牲の肉を煮るための容器が、天命を意味するとはどういうことか。
つまり、犠牲を捧げることが天の意にかなうということですね。
この犠牲、動物犠牲はもちろんのこと、人身犠牲もたーっぷりあったようです。
周の武王の反乱(あえて反乱といっておこう)にしても、祖父と兄が犠牲にされたからってのが大きいみたいですしね。
殷墟から発掘された卜骨でも、しょっちゅう「羌(きょう)を犠牲にするのは吉か」なんて文字(もちろん、それが甲骨文字です)が見出されるそうですが、殷墟の近くにあって、殷族とはおそらく別の部族だったらしい羌族が、しばしば犠牲になっていたようです。
あるいは戦争に勝ったら、捕虜を犠牲にして天に感謝する、というのも、普通に行われていたようです。
この犠牲というのが、鼎で煮るということで、同時にそこで酒を供するわけですから、それが天に捧げる供物であるとしても、儀式を見守る王および諸侯のあいだで、そのあと饗宴が行われたであろうことは想像するに難くありません。
というか、犠牲の肉を共に食うことで、王に従う諸侯の立場が明確にされるということもあったかもしれない。
あるいは、そういう饗宴に従うということは、王の威徳(この「徳」については、あらためてのちに述べるつもりですが呪術的な意味が強いようです)にひれ伏す意味もあったかもしれません。
そんな犠牲の肉を斬るのは、鉞(えつ)と決まっていたそうです。

周の武王が紂王とその愛妾を、そのあと鼎で煮て天に捧げたかどうかはわかりませんが、その可能性は大だと思います。
というのも、殷の鼎を受け継いだという説があちこちにみられるからですね。
どうもこの、鼎というのは、全部で9個あるらしくて、犠牲の大小によって使う数を変えるらしいんですけど、これがいにしえの代に作られて、代々、天命を奉じる王朝に伝えられたという伝説ができあがったようなのです。
つまり、酒池肉林だったのは、王さまというより、天(神様なのかな? このへんも判断がむずかしいですね)のほうだったようなんですよね~。

さてと、そこで妲己とはなんであったか、ということになります。
紂王にいたるまでの殷の王さまは代々、こうやって天を祀る行為を一手に引き受けていて、だからこその王さまなわけです。
その王さまと同じような目にあわされた妲己というのもまた、この天を祀る祭祀に参加していたのではないか。
いや、妲己がいなければ、そもそもその祭祀は成り立たないぐらい重要な存在だったのではないか。
つまるところ、妲己とは殷の王宮に使える巫女(みこ)のような存在だったのではないか。

なんでここまで解釈が飛躍するかといいますと。

近年、殷墟で、婦好墓という殷代後期のはじめ、ちょうど大量に甲骨文字の刻まれた卜骨が発掘される時代の王さま(武丁といいます)のお妃の墓が発見されたのですね。
幸いに盗掘を免れていたために、ほぼ完璧な形で墓が発見され、おびただしい数の青銅器が出現して、しかもその青銅器に婦好の名前が刻まれていたのだそうです。
殷代に青銅器に文字が刻まれているというのは大変に珍しく、また文字を鋳込んだ青銅器も数少ないので、それは貴重な発見だったわけです。
そして、この婦好というお妃がなんで名前も分かっているかというと、卜骨に彼女がらみの事象がたくさん刻まれていて、特に本人が自ら占いをやったとか、政に関与したとか、あろうことか将軍となって自ら兵を率いて討伐にいったということが分かっているからなんです。
(甲骨文字の刻まれた卜骨というのは、この武丁以降のものしかないんですが、特に武丁時代のものが一番多いらしいです)
つまり、奥方が、巫女で政治にも関与していてしかも将軍だったわけですよ、殷の王さまの。
独立したお墓なんかも作られちゃうわけです。
お墓には殉葬のあともみられ、しかも殉葬者の骨のしたには朱砂がまかれていたという、壮麗なものです。
もしかすると共同統治者である女王にも似た存在だったかもしれません。

中国では一般的に女性が統治者になることを好まず、したがって武則天(唯一の女性の皇帝ですな)もまた、則天武后とあくまで妃として呼ぶ事例が多いぐらいなんですが、古代においてはもう少し女性の地位は高かったようです。
もちろん、すでにお墓の埋葬方法においても男女差が出ていたりはするのですが、それでも、圧倒的に女性の地位が低いというほどではない。
そして、王さまと同じような死後の辱めを受けた女性というのは、王さまに比例する力を持っていたと想像することはできませんか?
その力とは、天を祀る力であり、呪力なわけで、だからこそ怖れられて、後世、悪女の代名詞になったのだとすれば、それはそれで納得がいくような気がします。


一年放置しっぱなしでございましたm(_ _)m。 [雑感]

2007年初頭のご挨拶を述べようかと思ったら、前の発言が2005年年末……あらまぁ。
昨年はちょっと、記紀から遠ざかったおりました。そして、年末からなぜかわが家は中国史旋風が吹き荒れております。
もしかすると、こちらで、またアーティクルを連ねることになるかもしれませんが、記紀と直接関係なくても、やっぱりなんか関係してきそうな中国史なので、ご興味ありましたら、ごらんくださいませ。
とりいそぎ、本年もよろしくお願いいたします。


土師娑婆連猪手~二人の間人を結ぶ存在 [問題提起]

穴穂部間人(用明皇后)と、間人(孝徳皇后)、この二人の間人には何か血縁関係があるのではないか、というのが、そもそもの出発点であった。

私(と私の夫)は、従来言われているように、天皇の子女たちの名前が、養育者由来であるとは信じていない。
むしろ、名前が冠するものは、その本人の所領ないし経済由来物件と何らかの関係がある、と思っている。

それで、謎の「はしひと」である。
間の人という、大変に意味深な言葉に、「愛(は)しき人」なのかなんなのか「はしひと」という読み仮名が振られている人名である。
これが、皇后として二名、存在する。
この関連性を追究したいわけだ。

というか、この二名に関連性がない、ということのほうがおかしい、と思うわけだ。
もし名前の由来が養育者であるとするならば、この二名は同じ養育者によって育てられていなければいけないが、そういう話はどこにもでてこない。
はなっから、聖徳太子の母親である穴穂部間人と、皇極天皇の娘であり孝徳天皇の妻であり、中大兄たる天智と何やらあったかなかったか判明しない間人とは、全然別人(いや、もちろん別の人であることは間違いないが)で、関係皆無というのが、従来の見解であった、と思う。

本当にそうなのか?
この二人をめぐるミッシングリンクに登場する土師娑婆連猪手はじのさばのむらじいて)を通して、二人の関連性を探ってみよう。

土師娑婆連猪手が最初に登場するのは、推古天皇十一年、百済を救済するために派遣した来目皇子が筑紫において死ぬ。そして周芳(周防)の国の娑婆(佐波)で殯をすることになる。
この殯のために中央から派遣されるのが、土師連猪手であり、このゆえに、猪手の子孫は娑婆連を名乗ることになる、というのだ。

佐波(娑婆)

次に登場するのは皇極二年九月。舒明天皇を押坂陵に葬ったあと、皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)が亡くなる。このとき、「土師娑婆連猪手に勅して、皇祖母命(すめみおやのみこと)の喪(みも)を視(み)しむ」とある。

前者は殯であり、後者は喪なので、微妙に行事が違うということはあるが、葬儀にまつわることにかわりはない。
前者と後者の間には35年の年月が流れている。
この二つの葬送に一人の人間が携わっているのだ。
かたや、穴穂部間人の息子の葬儀。
かたや、間人の祖母の葬儀。
ミッシングリンクは来目皇子と吉備嶋皇祖母の間に、ある。

そもそもなぜ、土師娑婆連猪手という人物が、この二人の人物の葬儀に関わったことを、特に記さねばならなかったか、ということなのである。
たしかに土師氏は葬送儀礼をつかさどる氏族であり、彼に殯や喪(みも)を担当させるのは、ある意味当たり前のことかもしれない。
だが、問題は、それ以外の人物に特に殯や喪(みも)で土師娑婆連猪手という個人名を指定して司らせたという記述がないのに、なぜか、二人の間人に関わる来目皇子と吉備嶋皇祖母のみ、わざわざ記述しているということなのだ。

そこで古事記の記述を見ると、穴穂部間人は、埿(はつかし)部穴穂部皇女とある。
この埿(はつかし)という字は、泥の異体字であり、「どろ」と読む。
泥部・埿部とは「はつかしのとものみやつこ」と読み、令制では宮内省の土工司に所属するが、もともと土師(はじ)との関連は一目瞭然だろう。
また、はつかし(羽束師)という地名があることも、考慮にいれておくべきかもしれない。(山城国乙訓郡にあったらしい)
土師(はじ)とは、「はにし」という言葉が変化した語であって、埴輪などの土器を作ることをつかさどった人であるが、律令制では諸陵司の伴部となっている。
これをまた「土師人(はしうど)」とも呼ぶ。
間人(はしひと)との関連性はいうまでもない。
もっとも土師が貴人の葬送を司ったのは、律令制にはいってからではなく、すでにこの時代に明らかであり、むしろ埴輪を作るというその本質からみて、土器生成よりも葬送儀礼に携わることのほうが本義であるかもしれない。
とすると、土師部の下に実際に土器生成に携わる泥部がいて、これが律令下においては、葬送関係と土木工事方面とに完全分離したのかもしれない。
それはさておき、このように考えると、「間人」という名前は、土師部の存在を暗示していることになる。

この土師部の存在とは、正式な意味において土師部の統率を意味するのではないか、と私見している。
ただし土師というのは凶礼に携わるがゆえに、その名を忌むということがあり、後世、土師氏の改姓(菅原氏や秋篠氏など)ということも行われているので、その名を表に出すことは忌まれた可能性がある。
間人とは、すなわち葬送において、死者をこの世からあの世へ送るための橋渡しをする儀礼に携わる人間を意味するのではないか、などという想像の飛躍もまた楽しい。

そして、この土師娑婆連猪手が葬礼に関わる二人の人物、来目皇子と吉備嶋皇祖母は、実は血縁関係にあるのではないか。
もっと言ってしまうと、吉備嶋皇祖母は来目皇子の実の娘なのではないか。
しかし何か憚ることがあって、この二人の血縁関係を表沙汰にすることができなかったので、日本書紀の編者は、わざと葬礼に関わる一人の人物をフルネームで挿入したのではないか。
見る人が見れば、その関係性が明らかであるように。
それが春秋の筆法なのではないかと思う今日このごろ。

もしもそうだとすると、穴穂辺間人は、間人の祖母のまた祖母になるわけで……それなら、「間人=土師人」というなんらかの力(それが土師を統べる力なのか、はたまた葬礼にかかわる何かの呪力なのか分からないけれど)が受け継がれている可能性があるんじゃないか、と思われるわけである。

ちなみに、来目皇子の「来目」というのを地名の「くめ」と考えた場合、もちろん飛鳥に来目があるのだけれど、私は岡山すなわち吉備の久米も関係あるんじゃないかなぁと思うわけだ。
この吉備の久米を背景にした財力が来目皇子にあるとして、その財力基盤である吉備の在来勢力との婚姻によって、吉備の媛が生れる。それがやがては吉備嶋皇祖母になるのではないか、と想像することはできなくはない。
その場合、想定されている厩戸や来目の年齢よりも、ずっと年配である必要はあるが、そもそも彼らの生年月日って、まったくはっきりしていないのでね。

もうひとつ。
もしかすると、来目皇子は厩戸皇子より年上で、彼のほうが穴穂辺間人の長男であった可能性もあるかも。
厩戸は用明が愛でて「上宮(かみつみや)」にて養育した、と言われているが、それはすなわち母方に疎まれたということで(当時は母方で養育するのが当たり前だから)、そういう意味でもちょっと変な存在ではある。
一方、推古記の冒頭部分の、来目皇子の戦死にまつわるあたり、「すめらみこと」が実は穴穂辺間人であったならば(その可能性はけっこうあるかも、と最近思っている)、その長子たる来目皇子は実はもっと重要な人物であって、(だからこそ半島に送る戦力を率いる将軍として行動できるわけだ)しかし厩戸→山背大兄と続く血統が途絶えたことになっている書記編纂期に、実は厩戸の兄弟の血筋が連綿と続いていると暴露するのはまずかったのかも……なんて穿った見方をしてみたりして。

いずれにしてもなんでこんなに間人にこだわるかっていうと、穴穂辺間人も間人も、一時期、「すめらみこと」か「なかつすめらみこと」的な存在だったんじゃないだろうか、という疑問があるからだ。
というか彼女たちの呪力がなければ、用明も孝徳も「すめらみこと」になれなかったんじゃないか、というべきかな。
つまり、歴史の背景に女あり、ですよ。


『プロジェクト・スメラミコト』 [問題提起]

1.提唱者
 伽耶(任那)の風前の灯火の支配層

2.黒幕
 百済

3.初期実行者
 大伴金村

 このプロジェクトは、風前の灯火の伽耶を再興するために、倭(やまと)の兵力を糾合するものである。
 もともと半島勢力が倭の兵力を認識させられたのは、息長足媛(おきながたらしひめ・神功皇后)の強引な乱入であった。
 その後、越の勢力(もともと、息長足媛の背景は越と思われる)が、何回か半島へ押しかけているが、たいしたことはなかった。
 ところが、各勢力持ち回りで緩く束ねられていた海人(あま)の総帥に、強引にライヴァルをぶち殺して大権力をぶちとった大泊瀬幼武(おおはせわかたけ・雄略)がつくと、到底、無視しえない兵力を半島になだれこませるようになった。
 雄略の王国は一代で瓦解したと思われるが、倭の海人を糾合できればかなりの戦力になると半島側が認識したのは間違いあるまい。
 ならば、自分たちに都合のいい権力を倭にうちたて、大兵力を味方につけることができれば、伽耶も再興できるし、百済も安泰、と思ったのではないか。
 かといっていまから大兵力を送り込んで、倭を制圧して、雄略のような新たなオオキミをたてるだけの力は、伽耶はもとより百済にもない。
 そこで、彼らが考えたのが、プロジェクト・スメラミコトである。

 スメラミコトとは、「ミコト」を「統べる者」の意味ではないかと思われる。
 ミコトとは「御言葉(みことば)」であり、神や権力者の命令を意味し、はては命令をする神や権力者その人の尊称ともなったのであろう。
 ミコトは、キミと違って自前の権力を必ずしも持つものではなく、他者に命令する権能を持つことによって保たれる「ミコシ」のような存在ではなかったかと思われる。
 それらを統合するひとつ上の位、それが「スメラミコト」なのではないか。
 
 これに乗ったのが、雄略朝の末期から実力者として政治を仕切り、半島、特に百済と脈を通じていた大伴金村である。

第一段階「継体推戴」
 九州は大伴氏の勢力の範囲外だったと思われるので、もっとも半島に力を及ぼしやすい越の王を「スメラミコト」として、権力を持たせようとした。
 そうやって選ばれたのがオホド王(継体)である。
 金村の後押しを受けたオホドに、倭の勢力はある程度協力したと思われる。
 その代表格が近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)で、彼が将軍になって何度か新羅に出兵している。
 しかしたいして戦果はあがらず、親新羅と思われる筑紫王磐井(つくしおう・いわい)と毛野臣の間で戦争になり、大伴金村は物部アラカヒを筑紫に遣わし、磐井を撃破する。
 そこで毛野臣は首尾よく半島に渡ることができたが、いざ半島に到着してみると勝手気ままに権力を振るい、伽耶(任那)の貴族の総スカンを食い、あげく、百済・新羅と同時に戦闘するという無茶苦茶な事態に陥った挙げ句、打ち破られて逃走中に死亡する羽目になった。
 かくして、プロジェクト・スメラミコト第一段階は散々たる失敗に終わったのであった。

(以下続く)


二人の間人 [問題提起]

間人と書いて「はしひと」と読みます。
間の人で、はしひと。
はぁ?って感じですよね。
どうしてそう読むかの説明もない。

日本古代史には二人の間人が登場します。
一人は「穴穂部間人皇女」で、用明天皇の皇后であり、厩戸皇子の母と言われている人です。
もう一人は「間人皇女」で、こちらは皇極斉明天皇の娘であり、孝徳天皇の皇后となった人です。

この二人には血縁関係はない、ように書かれています。それなりのに同じ間人という名前を持っているのはなぜだろう?
ずいぶん前から疑問に思っていました。

なんとなく、間人って、「神と人の間を取り持つ」という意味で、巫女的な命名なのかなって印象がまずあって。
でも、二人の間人に関しては、ほとんどそれらしい記述がないですよね。
どちらもなんか、運命に翻弄されている存在の薄い女性っぽい記述がなされている。

穴穂部間人は、用明の皇后となり、厩戸と来目ともう一人ぐらい皇子を産んだけど、用明が亡くなったあとは、用明の最初の子である田目皇子と再婚した、(そして佐富王女を産んだ)という説があるようです。
間人は孝徳の皇后となって難波にいったけれど、兄である中大兄が「孝徳見捨てて近江にいこうぜ」って言って、母である宝皇女(当時は皇極天皇を退いて、いわゆる皇祖親(すめみおや)だった)とともに飛鳥に去ってしまいます。で、孝徳が、「くびきをつけて馬を飼っていたのに、その馬をとられてしまったよ」という嘆きの歌を送るわけですね。そして一説によると、中大兄と関係していたらしい(さすがに同母兄妹なので、書記ではほのめかすにとどまっております)。
夫と兄の間で引き裂かれる悲劇の女性としては、佐保姫という存在がありますが、あれもなんだか兄との間に「できてる」印象がありますが。
いずれにしても、自分からあれこれするのではなく、他人の思惑でひきずりまわされる印象の女性たち、それが間人という存在に見えた、のです。

が。

間人はやがて亡くなり、斉明として重祚した母親宝皇女と合葬されるんですが、そのときに、その陵の前っかわに、大田皇女が同じく埋葬されるんです。
大田皇女というのは、中大兄の娘で、母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘越智娘(をちのいらつめ)といいます。
大海人皇子の妻となり、大伯(おおく)皇女を産んだとされてます。
でも、どうして、間人とその母親と一緒に埋葬されたんでしょう。
合葬ではないにしても、葬礼記事が同時に載り、わざわざ「陵の前の墓に葬す」と書いているんです。

気になって、あれこれ、合葬記事を探してしまいました。
そうしたら、夫婦の合葬、親子(しかも母と子)の合葬はあるんですが、孫とか姪とかを一緒に葬った(わざわざ埋葬し直したっぽいんですよね)という事例は見当たらないんですよね。
探したりないだけかもしれないけど。
だからもし大田皇女を合葬なり誰かとあわせて葬るとしたら、本来、越智娘系列とあわせて葬るべきであって、祖母と叔母の横にわざわざ葬りました、と記述をするのは、ちょっと変かな、と。
それで考えると、母娘の合葬墓のその前に葬られた大田皇女は、間人の娘と考えるのが、一番合点がいくんですけど……。
(うちの夫は、むしろ、大田皇女は宝皇女の娘なんじゃないか、と言ってます……年代的にはそちらのほうがあっている……のかな?)

閑話休題。

間人(はしひと)のことを調べようと思ってインターネットで検索かけたら、でてくるでてくる蟹またた蟹……「たいざがに」という丹後半島の名物。
なぜ? と思ったら、間人と書いて「たいざ」と読む地名があるのだそうです。
で、なんで「たいざ」っていうかっていうと、むかし、穴穂部間人皇后が、一時期、難を避けて、生地であるその地(丹後半島の突端である)に避難していたので、「たいざ」と申し上げる、とあります。
「たいざ」って……「退座」ですか?
難というと、穴穂部皇子をめぐるゴタゴタっすか?
それとも崇峻天皇暗殺っすか?
はたまた……?
そして、「退座」という言葉が意味深で、なんとなく「天皇の座を退いた」というように読めるのは、うがちすぎ、でしょうか?
すごく気になる。
もしかして、穴穂部間人は、ある時期、天皇(すめらみこと)だったことがあるんじゃないのか?
そうでなくても、彼女の存在は、実はすごく重要であって、彼女との婚姻がなければ用明は天皇になれなかったとか、彼女の息子だから厩戸は皇太子だったとか。

推古天皇の冒頭部分は、とても変な感じなのです。
推古が即位して、厩戸が皇太子に決まる。そのあいだの文章に、何もないんですよ。
一応、厩戸は推古の女婿ってことになってます。(一応、といわせていただく)
でもそれだとしたら、「推古には、夫の敏達との間に竹田皇子がいたけれど、これが亡くなってしまって~、そのあとに残った皇太子候補に誰と誰がいて~、あれこれ悩んだけど、厩戸を選びました」の一言があってもしかるべき、だと思う。
いやまぁ、この時代に本当に「皇太子」という存在があったかどうかは別にして(ほかに、「大兄」という存在があって、これがかなり重要そうなので)、少なくとも当時の厩戸にはほかにたくさんのライバルがいたはずなのに、まったく言及されずにすんなり皇太子になっているのは、異様な感じなのです。

が、もし、推古冒頭部分、推古でなく穴穂部間人が天皇になっていたとしたら、厩戸が皇太子というのは、流れとしてごく当然というか、おかしくないんですね。厩戸は穴穂部間人の長男だから。
もしかして、36年に及ぶとされている推古の治世は、前半は穴穂部間人が天皇だったんじゃないか、と疑いだしたのは、これが原因であります。
そう考えると、推古期の厩戸の実績に関する記述も、またその目で見直してみる必要がある。

さて一方、宝の娘の間人ですが、この人もまた、重要な存在だったんじゃないかと思います。
孝徳は間人を嫁にしないと、天皇になれなかったのかもしれない。そういう存在と考えると、重要さも浮き彫りにされるでしょう。
で、天智との間に生れた娘は天武の最初の妻となっている。
(実は天智・天武・間人は、まったくもって、血のつながった兄弟じゃないってのが、我が家の考えです)
なにより。
天智は、間人が死ぬまで、天皇になれなかったんですよ。
ここがポイント

しかし、長くなってしまいました。
問題提起だけして、ひとまず、筆をおくことにします。
二人の間人に関しては、土師娑婆連猪手の殯をめぐる章で、改めて。


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