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まだまだ孔子…… [中国古代史]

いったん疑問に思うと、あらゆることが不思議に思えてくる孔子。
なんでこの人が聖人君子になっちゃったのか、大変に疑問。
彼が生前に各国の諸侯相手に披瀝した自説たるや、おおよそものの役にもたたなければ、実行しようがないというか、しがいのないシロモノ。
現実に考えてみてください。
人民相手に身を慎み、仁愛をもってのぞみ、税は軽く、自分は放蕩しないで、って言われて、ほいほい聞ける諸侯がどこにいる?
そんなことできるなら、だれも苦労しまっしぇ~んというぐらい、身を慎むなど放蕩しないだのというのは、当時の諸侯である田舎やくざの親分(みたいなもんですよ、こいつらは)には無理な算段です。
しかもだ、諸侯の側が仁愛をもってのぞんで、税負担を軽くしたとします。それで人民は喜んで諸侯の徳を称えて、よく治まるって、想像できます?
そんなことないと思う。
実際に、そんなことしたら、人民はつけあがるばかりです。
つまり、孔子のいうところは、机上の空論なのね。
そりゃぁ理想論ではありますが、そんなことを実際に過去にやって成功した事例がない(ただし、孔子はあると思っていたっぽい)のです。
それに、春秋から戦国にかけての各国の歴史を調べていても、むしろ刑罰を重くして、厳正に人民にあたったほうが、盗賊の横行がなくなり、きちんと治まったようですよ。
もともと諸侯という連中と庶民という連中は、へたすると民族が違った可能性もあるぐらいで、そうそう一筋縄で統治できる状況ではないのです。庶民の側にだって、隙あれば諸侯を出し抜いてやろうという気概がありますしね。
なんで出し抜かなきゃいけないかってーと、つまり、諸侯ってのは、田舎やくざな存在なわけだから、であります。
どう考えても、左伝読んでると、そういうふうにしかとれないのよねー。
お貴族さまって連中は、とかく自分のメンツが第一で、とれるとこからはふんだくってやろう意識が高くて、自分の姉妹だろうが伯母だろうが、へたすりゃ祖母ともできちゃうというだらしない女関係。家臣の妻なんて基本ですわな。あげく、大食鯨飲でもって、やたら肉をくらうので、「肉をくらう人は長期的な観測がたてられない」と士身分に揶揄されるぐらい、見通しがたてられなかったらしいし。
こーゆーのが上にいたら、下にいる連中は、出し抜いてやろうとしか考えないだろうと思うし、そもそも、効率的な統治とか仁愛とか、想像もできないと思いますよ。
で、他国とのメンツをかけた戦争に庶民も駆り出した日にゃぁ、怨嗟も募りますわな。あげく、自分とこの農地が戦場になったりしたら……。
そーゆーことを日常茶飯事にやっていた時代に、礼だ仁だ徳だと言われて、はいそうですかってできる諸侯がどこにいるんでしょう。

そもそも、礼楽が基本だというのなら、最終的にもっともえらいのは周の王さまなわけでして、王さまをなんとかしなさいよと思うわけですが、孔子には眼中にないようです。
実際、周王って、存在感なかったからなぁ。
でも、周公旦が作ったのは、周王をトップにするピラミッド体制のはずで、それなのに孔子の目線が向いてないというのは、不思議っちゃ不思議です。
が、よくよく考えれば、彼は、王-諸侯-卿-大夫-士の、一番下の士のそれもぎりっぎり庶と変わらないぐらいのところの出自で、最終的に大夫ってとこまでのぼれたのが大変な名誉だと考える人で、そういう意味では、諸侯とか王とかって、彼にとっては雲上人というか、実はあまり想像もできなかったんじゃないのかな。
そして、彼が諸侯にいろいろと説いて回ったという伝説はあるけれど、それが本当だったかどうかも、彼の身分を考えると、けっこうクェスチョンなのです。
論語の中で彼は、自分にひとつの邑(村ですね)を宰領させてもらったら、三年あれば立派におさめてみせるのに、と言ってます。
つまり、大夫という身分で、邑宰になるというのが、彼の望みであり、これが魯においてかなったかどうかはとにかくとして、彼の目線の中で考えられる最高の身分というのが、これだったと思います。
だから、彼が仁とか徳とかほざいている話というのも、実は周王や諸侯クラスとは全然関係ないんじゃなかろうか。そんな諸侯に上から目線でこーしなさい、なんていえた身分でもないし、実際に言ってなかったんじゃなかろうか。
そんなふうに思えるわけですよ。
ぶっちゃけ、士身分に生まれたとはいえ、妾の子であります。
礼楽を知っていると自称しながら、魯の宗廟にはいりこんで、あれは何?これは何?と聞いて回ったという逸話もあります。
上のほうのことは全然知らなかったし、だからこそ学んだんだと思いますが、もとからもっていた知識ではない。
逆に、もとからもっていた知識ではなく、後付けの知識だからこそ、それをまた、別の人(弟子ですね)に与えることも可能だったし、弟子の教育って発想にもなったんだと思う。
で、孔子が弟子を教育して何にしたかったか、というと、これがまさしく、邑宰なんですよ。大夫身分の実務官僚ですね。
だから孔子が目指していたのも、そこだったんじゃないか、という妄想でした。


天命と徳 [中国古代史]

ちょっと雑感をば。

いやはや、孔子がらみであれこれ調べていたら、違和感ばりばりなのはなんだろうと思ったわけですが、その前は殷代の甲骨文書と青銅器の金文を読んでいたんですよね。
そこから、春秋左氏伝と史記に飛ぶと、ものすごく違ってくるんです。
これはなんだろーって感じです。

たとえば、孔子が「我十有五にして学に志す……五十にして天命を知る」という言葉がありますが、この「天命」って何だろうとかね。
あ、そういえば「学」もね。
「学問」と簡単にいっちゃうけど、そもそも孔子の時代に学問っつー言葉はあるのか、とかね。
どうも「学」という字の旧字「學」は、室内で礼楽の型をひとつひとつ教えられるという意味らしいんですね。
だとすると、孔子が志したのは、ほかならぬ礼楽で、それは十五になるまでは学べなかったのかなぁとか。

ま、それはおいといても、「天命」です。
これをね、「天が孔子にかくかくしろと命じた」という意味に、大体において捉えているわけですよね。
孔子が聖人君子であることを前提として、彼がかくあるべく天が定めたことを、孔子自身が認識した、と。
まぁ、しかしこれが周代の認識で考えると、どうにもあわないわけですよ。
つまり、「天命」というのは、そういう個人個人がどうこうというものではない。
「天」というのは、そもそもが部族神であったものを、殷から周にかけて、全体神として集合していったひとつの理念であって、それは殷とか周とかの国体(変な言い方をしますが、まだ国家というものは存在していないと思うので、部族連合を統率する形ぐらいの意味にとってください)に対して、いわばその統率する権利をバックアップするようなものだったと思われるわけです。
ここに付随するのが「徳」で、これはもともと、「目の力」すなわち、睨む呪力だったわけですね。
この呪力は、殷の王さまに代々つたえられていたことになっていて(実際は、そういう能力をもったものが王になっていたんではないかと思われ)、したがって「徳は血筋で継承する」という認識ができあがってくる。
一方の天命は、周の文王が受けた!と言い張っているもので、それは殷から周に王権が移動した(というのも語弊があると思うけれど、まぁ、そういうことにしておきましょう)ときの周側の主張なわけです。つまり、天は殷が非道であるので、周に王権を受けるように命をくだしたのだ、とね。
この文王(実際にはこの人は、別に王さまになったわけじゃないのよね。ただ、あとから諡したわけです)が天命を受けるというのは、すでに武王の時代には理念として存在したというか、そもそも、武王が殷の紂王を討伐するための大義名分にしたっぽい。
そして、この大義名分の形を作ったのは、太公望の入れ知恵なんじゃないかなぁ、となんとなく思ったりして。
何をどう言い繕おうと、そもそも殷の家臣である周侯(文王も武王もそういう存在だったわけです)が、主人である紂王を殺すというのは、忠義に悖るわけです。(実際に、伯夷叔斉はこれを指摘して、武王に従わないわけですな)でも、紂王は非道なのでこれを倒さなければいけない、という大義名分をもって、勝てば官軍なわけですよ。
そのための「天命」であって、この天命の理論というのは、周代を通じてどんどん理念化されてる気がします。
そして、王が天から命をくだされて、その王がまた家臣に命をくだして、というように、ヒエラルキーに沿って命がおりていくという図式ができあがっていく。
そうやって受けた命というのは、主君のさずけた恩義なのであって、受けた側はおりおりに恩義をありがたく感じながら、これを代々つたえていくのである、と。それが徳なのだ、と。
そういう認識が周代の青銅器の金文から読み取れるというようなことは、小南一郎氏が『古代中国 天命と青銅器』で詳しく説明してくれています。

で、問題は、この認識と、孔子の時代の「天命」や「徳」とのあいだに、かなりのぶれがあることですな。
まぁ、「徳」という言葉に関しては、殷代と周代ですでにぶれがあるので、何をかいわんや、という感じはありますが、それにしても、さらに孔子の時代、あるいは論語がまとめられる時代になると、どんどんぶれていくような感じですね。それが倫理的な意味で用いられることになるってことだと思うわけですが。
もともと「徳」という言葉に倫理的な意味はなかった。それは「天命」もそうです。これは絶対的な力であり意志であり、そこに人心の介在する余地はなかった。そのぐらい「天」は絶対的であるという意味では、ユダヤ的かもしれませんね。だから天命というのも勝手におりてくるものであって、人間のがわには選びようがなかった(これまた、カルヴァンの恩寵予定説みたいなもんですな)と思われるわけです。
が、周の文王が天命を受けるに際して、何やら、文王が身を謹んでいたからくだった、みたいな解釈がされる。この解釈はかなりあとからされるんじゃないかと思うんですけど、とにかく、修身ということが言われるようになるわけです。それ自体、なんつーか、かなり後代のもの、孔子の時代というよりももう少しあとっぽい印象があるんですけど、まぁ春秋から戦国にかけて、さまざまな書が編まれていく中で、このような書を実際に書いて編集して形にしていく史と呼ばれるグループが孔子の弟子である儒教教団と密接な関係をもっていって、やがては儒者が史となる、というような展開がみられるわけですね。そこで、言葉で書き記されて残されるものには、修身的な文辞が使われるわけです。いわく「身を慎んだので王になった」とか「身を慎まなかったので、王を追われた」とかね。
でも、本来、身を慎むとか慎まないとかに関係なく、天命ってのはあったと思われるわけですよ。
そして実際に、身を慎んだらいいことあるのかってーと、あまりそうでもないのが中国の哀しい部分でして。
なんとなく、そのへんを悟ってしまったのが、「天命を知る」だったら、そりゃぁつらいわねぇ……。
いや、もちろん、そうだという確証はありませんが(^ ^;)。


歴史書について、考える [中国古代史]

現在、『春秋左氏伝』を読んでいるんですが、なんというか、書いてあることと評価とのギャップが激しすぎて、あれれ?と思うことが多くあります。
つまり、現実にその時代に起こっていることと、それを評価する時代の感性が、ものすごくブレているということですね。
これは、左氏伝の時代にはまだ、ほとんど儒家というものが形成されておらず、あるいは、後半にようやく形成されはじめたといっても、それが思潮の中枢になるということはなかった、ということと関係が深いのかなぁと思ったり。
ちょうど、左氏伝も後半あたりで、孔子がでてきて、じたばたしているわけです。
……うん、じたばたしてるんだよね、この人が(^ ^;)。
後世の、聖人のような孔子像からは似ても似つかないジタバタぶりです。
なんかちょろっとでてきて、少しだけ活躍したかと思うんですが、すぐ歴史の表舞台からいなくなってしまう。
あちこち放浪したらしく(このへんの話は『史記』にでてくるんですが)結局、きちんと仕官するなんてことはできなかったっぽい。
まぁ、「仕官」という発想そのものがですね、この時代にはまだ定着していないわけで。
しかも孔子が理想とする君主っていうものが、もう現実からかけ離れまくっているので、「そんなもんいるわけねーだろー」と突っ込みたくなるような有り様。
存在しない君主を求めて放浪する孔子って……誇大妄想狂ですか?
しかも孔子が「これぞ!」と絶賛している周公旦とか周の礼法とかってのも、どうも孔子の頭の中で妄想膨らませてできあがったシロモノっぽいこと夥しい。
しかもそうやって孔子が練り上げた「理想」が、いわばその後の中国思潮のデファクト・スタンダードになってしまうわけですから、オソロシイ……。

そして、孔子はどうやら、「史」という役職についてたんじゃないかと思わせる雰囲気があるんですが、その後の、まぁ、漢代以降ですが、史書と呼ばれるものが書かれるようになってくると、この孔子の理想がデファクト・スタンダードになって、その門下生が史書を書くのがあたりまえとなってきます。
だから、中国の歴史書ってやつは、孔子の理想が満載なわけで、そこから少しでもはずれると、とたんに「アウト!」とレッテルをはられてしまう。
たとえば、女性が表で何かやるのは、絶対ダメですよね。
だから武則天なんか、論外なわけです。が、実際には武則天のような存在があって、ほかにも女性が力を振るった例は(隠しきれずに)存在する。でも、そういうものは、とにかく「ダメダメだった」というレッテルで潰していく。
そうなると、史書というものに書かれていることが、どのぐらい「本当」なのかってのは、かなりの眉唾なわけでして、そこらへん、「儒家の怨念」を斟酌しながら読まないと、通り一遍なお題目的歴史になってしまうのですね。
いわゆる悪女と呼ばれる人たちも、そういうレッテルでずーーっと語り継がれてきたわけで、それはどうよってところがいっぱいあるわけです。

それとは別に、左氏伝を読んでいて、つくづくと度し難いなぁと思うのは、王とか諸侯と呼ばれる支配階層です。
本当に骨肉の争いは平気でするわ、倫理感ないわ、わがままだわ、人のいうこと聞かないわ、好き勝手するわで……ちょっとでも「まとも」なことすると、すぐに覇者になれます、はい。
いや、斉の桓公なんて、相当にひどいよね、これと思うんだけど、それでも管仲のいうことだけはなんとか聞いていたから、十分に覇者になれちゃった、っつーぐらいのもんです。
みんな……人のいうこと聞こうよ(泣)。
逆に言うと、これらの支配階層が、なぜ、他人のいうことに耳を貸さない存在になっているのか、そのへんから民族性を探るというのも、面白そうですけれどね。
鍵は殷代にあると見た。

ま、それはさておき、左氏伝にでてくる女性たちって、なかなか興味深いので、少しずつ紹介してみようかなぁと思います。というか、左氏伝にでてくる女性たちを順番に紹介するだけで、何かが透けて見えると思うんだな。


孔子について考える~続き [中国古代史]

ところで、孔子が、母が死んだあと、人に訊ねて父の墓に母を合葬したという話ですが。
人というのは、隣人で、その人が教えてくれたというのがどういう意味かはさておいて。
おそらく、父の家というのは、正妻がいて、そこに子供たちもいたんだと思うんですね。
で、母親を合葬してもよいという許可は、その子供たち(孔子にとって母のちがう兄弟ということになります)が出したことになります。つーか、出さなかったら合葬はできないわな。
そうすると、孔子が父の庶子であることを兄弟が認めたということになって、そこで孔子は孔家の子として認められるってーことではないだろーか。
それが15歳だったとしたら?

なぜかというと、孔家は一応、宋の侯家の分かれってことになってるわけです。で宋侯家の祖先というのは微子啓なんですね。
この微子啓って人は、殷の紂王の庶兄だとされてます。で、この微子というのは、子姓のうち微という殷の先祖神を祀る家系だったんじゃないかと思うんですが、この微子の家系の中に、わかれて、周の王室で史官をやってる家柄があるんです。
史牆盤っていう青銅器があって、その銘文からわかるんですけどね。
てことは、微子の流れを組むってことは、そもそも殷の王室が独占していた甲骨文字の扱いに長けていて、周の王室が独占していた金文鋳造にも通じていて、要するに甲骨文字金文文字が扱える家だったんじゃないかと思うわけです。
で、殷代からおそらく竹に筆で文字を書いていただろうと言われています。筆はもしかすると殷より前からかもしれないとも言われています。
だから、考古学的な発見はないわけですが、甲骨文字や金文資料とは別に、文字書きの伝統はすでにあっただろうと思えるわけですね。
これを王家が独占していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても春秋になると、文字は各国に普及していきますから、当然、それぞれの諸侯が文字を扱える者を召し抱えていたと考えられるわけです。
そして、各地に散らばったと言われる殷人、彼らの中にはそのネットワークを駆使して賈すなわち商人となったものも多いと思うのですが、それとは別に、各国の諸侯のもとで史すなわち書記になったものもいるのではないかしら。
孔氏という氏族は、宋だけではなく衛にもいたようで、孔文子という卿が孔子を引き止めようとして云々という話が『史記世家』にもあります。
で、ながながと話してきたけれど、要するに、孔子の父親の家というのは、魯で史官だったのではないかと思うわけですね。
15の時に、庶子である孔子は、母親の葬儀で本家と連絡がつき、子として認められ、孔氏を名乗れるようになったのではないか。それまでは、要するに彼は顔家の私生児だったのではないか。(母親が顔氏だったのです)
で、史官である本家の仕事をするために、学問をはじめた。それが「学に志す」なのではないか、とまぁ、こんなふうに考えるわけです。
この孔家が季氏の史官だったかどうかは、わかりませんけどね。
『史記』ではこんなふうにいってます。

孔子貧且賤。及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯

孔子は貧しくかつ賤しかった。長ずるに及んで、季氏の史となり、秤の使い方は公平だった。さらに司職吏となり家畜がよく肥えた。これがゆえに司空となったのち、魯を去った。

なんかこう、よくわからない経歴ですよね。
孟子によると、この「史」は「吏」の間違いで、倉庫番だということになってます。
また、「司職吏」というのは、家畜の繁殖係だそうです。
う~む、それから、司空になるって?たしか、司空って、六卿のひとつですよね? 賤しい身分の、士とはいえ底辺ぎりぎりの孔子が、史とか吏とかいう立場から、いきなり司空になるかしらん?
まぁ『史記』によると孔子は大宰相になったみたいだから、そのへんは吹いているかもしれませんが。
それとは別に、『周礼』なんかの記事をみていると、下級官吏に「史」という身分があるようなのですね。これは身分からいうと、上のほうではないけれど、一番下でもないって感じです。
卿が一番上で、その下に大夫がいて、これが上中下といるわけですね。その下が士で、これまた上中下といます。その下に府、史、胥、徒なんていうのがいて、こうなると、足軽に近いのかしらねぇ。
いずれにしても、そんなに高い身分じゃないですね。
まぁ、司空になったといっても、司空の下っぱってことかもしれませんが。
で、「司職吏」というのは、つまり「牛人」である、という説がありますが、この「つまり牛人」っていうのがよくわかんない。
牛人はですね。

牛人:中士二人,下士四人;府二人,史四人,胥二十人,徒二百人。

というふうに『周礼』に書かれてまして

牛人:掌養國之公牛,以待國之政令。凡祭祀,共其享牛、求牛,以授職人而芻之。凡賓客之事,共其牢禮積膳之牛;饗食、賓射,共其膳羞之牛;軍事,共其槁牛;喪事,共其奠牛。凡會同、軍旅、行役,共其兵車之牛與其牽旁,以載公任器。凡祭祀,共其牛牲之互與其盆簝以待事。

まぁ早い話が、祭祀や饗宴に使う牛を養う係ですから、たしかにそのあとの「畜蕃息」というのはわかるわけですけどね。
まぁ、『史記』の話のどこからどこまで本当かなんて、全然わかんないわけですから、細かいことをうろうろ言ってもしょうがないといえばしょうがないんですけど。
気になるじゃありませんか(^_^;)。

でも、なんとなく、孔子は史官の下っぱだったんじゃないかなぁって、思うわけです。
つまり、史官だと、いろいろな書き物を見ることができる。読むことができる。
そこから演繹力と想像力を働かせて(孔子の場合、想像力が豊かだったように思えますのでね)、ここで書かれているのは、あれなんじゃないか、とか、これとこれがこうなら、あれはこうなんじゃないかとか、穴埋めしていくことができると思うんですよね。
ただ、そもそも孔子が参考にした書き物っていうのが、おそらく各国から通達された文書とか、青銅器に鋳造された銘文とか、あるいは各種冊命ですね、君主が臣下になんらかの命を下す時の文書、そんなもんじゃないかと思うわけです。
そのへんは、なんというか、美辞麗句というか、きれいごとというか、ある意味、机上の空論っぽいものだったと思うわけで、それを孔子が真に受けたのかなぁってなんとなく思ったりしています。
殷周の実態なんかを考古学の出土品から考えると、孔子が理想としていた周公の礼とかって、絵空事っぽく思えるんですよね。でもその絵空事の伝承はあったんだろう。そうした伝承は、史と呼ばれる人たちによって書として保管されていて、参照することも可能だったんじゃないかと思うわけです。
ただ、各国にそれぞれ配られていたかというと、それは疑問ですよね。どういうときにどうすればいいか、あるいはこんなことがあったのはなぜなのか、わざわざ孔子に問うことがあるってことは、みんな知らないわけですから。
(そういや、そんな感じできかれて詳しく説明したので、あの人はものをよく知ってると言われた人に、鄭の子産がいますねぇ。孔子がすごく尊敬した人だけど。孔子30歳のときに、子産が亡くなっているんですよ。「30にして立つ」と関係あるのかな?)
ま、そんなことをつらつらと、考えてます。えぇ、妄想ですとも。


孔子について考える [中国古代史]

このところ、殷・周から春秋へとあれこれ読んでいて、ふと、思ったこと。

孔子は「15にして学に志す」というけれど、その「学」ってなんなの?

当時、郷学という学校制度はあったらしいんです。これは大体において士クラスの若者を教育するものだったらしいです。
当時の身分制度というのは、諸侯・卿・大夫・士という順序で、士の下はもう庶であります。
士というのは、たぶん、土地もちの最下層ですな。
士というから、戦闘できる層であることは間違いないと思います。
当然、この郷学において、射馬と礼儀作法を教わったとは思いますが、果たして、文字を学んだかどうかというのは、実はよくわからないんですね。
というのも、当時、文字というものは、ようやく周王室の独占がとけて、諸侯に広まってはいるものの、文字の著しかたは1に青銅器への鋳造であり、2番目に竹簡に筆書きでありましょう。で、青銅器への鋳造は、これはもう周の技術をもった青銅器鋳造職人でなければできないし、竹簡に筆書きするのは「史」と呼ばれる特定のグループで、これは世襲制だったと思われます。
たとえば、会盟には必ず史が参加しているんですが、この史というのは、会盟に参加する諸侯が連れてくるらしい。この史が参加してなくてはならないのは、盟書を書くまたは刻むために必須だからです。
こういうことをしている、というのは、つまり、諸侯は文字の読みはとにかく書きのほうはできなかったと推定できるわけです。
いわんや、卿・大夫・士においておや、ですな。
いや逆に、諸侯はとにかく、実務官僚である卿以下は文字の読み書き必須であったかもしれませんが。
それで、まぁたとえば郷学で文字の読み書きを教えたとして、孔子はこの郷学で学んだのだろうかというと、かなり否定的なわけです。
まず、彼は父の名前はわかっているけれど、その父と母は「野合」して彼が生まれた、とものの本(なんのことはない、『史記』ですけどね)に書いてあります。
そして、父は彼が生まれてすぐになくなり、孔子は父の墓を知らなかった……つまり、父を祀ることができなかったわけです。
母がなくなった時も、仕方がないので町でもがりをして、あとで父の墓を教えてもらって合葬したというのですから、かなり紆余曲折があったようです。
孔子の父という人、ないしそれより前の人かもしれませんが、孔氏は宋の出身で、『史記』は、そもそも宋の国君になるべき人が家を兄弟に譲って家臣になったというから、それだと卿身分ですよね。まぁ、このへんは眉唾ですが。それに流れ流れて魯の国に居ついた以上は、孔氏の直系の子孫かどうかもわからないわけです。
そして、たとえ孔子の父が宋の大層な家の出身であったとしても、おそらく私生児であり、かつ、父が生後すぐになくなって墓の場所もわからなかったというところから考えて、孔子が父を通じて宋の礼法に通じていたとは思えないわけです。
宋といえば殷の末裔ですから、もし宋の礼法に詳しいとすれば、周より以前の礼法が伝わっている可能性はあるわけですが、実際のところ、孔子が父親からそれを学んだという記録もないし、できたとも思えないわけですね。
そしておそらく母一人子一人の暮らしは豊かではなく、ましてや後ろ楯もない状態で、読み書きを学んだり郷学にいったりするということは、かなりむずかしかったのではないかと思われるわけです。
ましてや煩雑な礼法について、それも夏・殷・周三代の礼法について「知っている」という状態になるということは、一体どんなものなのか?
そもそも礼法について記した書物などというものは、当時、ないわけですよ。
書物といえば当時は竹簡を綴じたものであって、大変に貴重だし、そう簡単に持ち運びどころか目にすることもできなかっただろうと思います。
じゃ、どんな人間が読み書きできて、それまでに蓄積された竹簡に目を通せるかというと、やっぱりそれは「史」だろうなぁと思うわけですよ。

『史記』では、孔子は若いころに「季史」であった、と書いていますが、この「季史」に冠しては、『孟子』の言及から「季吏」だとする説のほうが多いのですが、私は文字通り「季史」すなわち、季氏の史(ふみつかい)だったのではないかと思うんですね。
史であれば、否応なく文字を使えなければならないし、当然読み書きができるし、過去に蓄積された竹簡のたぐいを参照できます。
というか、その手の竹簡の数は決して多くないし、一定の場所に集まっていて、一般の人間が触ることはできないはずです。燃えてしまうと大変だから、耐火構造の建物に厳重にしまっているでしょうからねぇ。
でも、そうした竹簡類に、孔子が通じていたという礼法について書いてあったかというと、これまたけっこう疑問なんですよ。
だって、そういうものに書いてあれば、誰も孔子に訊ねなくても読んだ人がわかるはずでしょう?
孔子に訊ねないとわからないということは、少なくともまとまった形で、その気になったら参照できるというものではないような気がする。
じゃ、どんなものを参照して、孔子は礼法の勉強をしたのだろうということになります。

これについて、相方がはっと気づきました。
「もしかして、青銅器の銘文を読んで、学んだのではないか?」と。
周代の青銅器の銘文には、よく、誰某の祖先が周王の誰某に仕えて功績があり、表彰された。いま、汝も祖先のように周王に仕えて、忠勤に励めよ、云々とあります。こうした銘文を読んでいくと、周代特に前半は国王の権威があまねく諸侯に及ぼされて、諸侯は周王の徳にすがっていたように見えます。ましてや孔子のいた魯の祖先は周公旦ですから、周公旦にまつわる銘文のはいった青銅器があれば(たぶん、あったと思います)そこで周公旦の事跡も学べたはず。
というか、孔子があれほど周公旦周公旦と言うのには、なんらかの理由があるはずなんですね。
なんといっても、孔子は別に魯の君主の家柄ではない。周公旦は彼の祖先ではないのです。
もし彼の祖先が本当に宋侯の家柄ならば、彼のもともとの姓は子姓のはずで、いっぽう、周公旦は周王家と同じなので姫姓です。
どう考えても孔子が、礼の創始者としての周公旦をでっちあげて持ち上げる理由にはなりません。
が、なんらかの形で孔子は、周公旦という人物にものすごい感銘を受けていて、周公旦こそが周の礼法を制定し、天下にあまねく普及させたとのだという妄想(あえて妄想といいます)にふけるようになります。
これは彼が、周公旦の事跡についての銘文を読んだのではないか、というのが、こちらの妄想というわけ。
えぇ、ただの妄想なんですよ。


殷王朝の人身犠牲 [中国古代史]

殷代も後半になって、鄭州商城・偃師商城が放棄され、殷墟にうつる前あたりと思われる小双橋遺跡で、犠牲と思われる膨大な人骨が発見されたこともあって、殷王朝の祭祀は、この殷墟遷都前後から大きく変化したのではないかと推測される。
盤庚の時代に殷墟に移ったものと推定はされているが、そのあたり、細かい年代は当然のことながら分からない。それ以前に人身供犠が積極的に行われたかどうかは、まだ未発見である可能性も否定できない。
とはいえ、鄭州商城も偃師商城もかなり発掘が進んでいて、重層的な宮殿遺構なども把握されつつあるのに、この手の人身犠牲の報告が少ないということは、ちょっと注目に値するかもしれない。
すでに新石器時代後半から、首長のものと思われる大型墓には殉葬者がでているから、そういう意味での人身犠牲は物珍しいわけではない。
が、小双橋にみられる人身犠牲は、頭を切り落とされているところに、大きな違いがある。のちの殷墟での発掘状況などをみると、頭が切り落とされた場合、頭蓋骨はまとめて別のところに葬られているようなのだ。
そして、この頭を切り落とすという状況は……やはり、どう考えても相当におどろおどろしく、凄惨なものだっただろう。

とはいえ、古代の祭祀においての凄惨な場面というものを、現代の感覚で再現するのは危険が多い。
この手の頭蓋切断があるために、犠牲者は罪人や奴隷だっただろうということがしきりに言われているが、果たしてそうなのか、きわめて疑問が残る。
というのも、これらの人身供犠における「頭」は、先王に捧げられるものだったからだ。

殷の祖先祭祀において、「先王」すなわち「父某」が重要らしいのは、甲骨卜辞からも推測できるのだが、その理由というのは、先王が「祟る」からである。
この祟りを鎮めるために、人間の頭を必要としたらしいのだ。
そして、この頭を切り落とすために「鉞(えつ)」という特殊な武具を使う。
口を大きくあけ、大きな目で睨んだ、人面や獣面をあしらった青銅製の鉞がいくつも出土しているが、これが首を切り落とすための特殊な武具であり、しかもこれを持つことは王権の象徴なのだ。
つまり、首を切り落とすという行為は、王が王であるために付随する特権なので、その特権のために首切られる人間が罪人や奴隷であるという発想は、ひとまず棚上げにしたほうがいいんじゃないかという気がするのである。

犠牲を捧げるというのは、神なり天帝なり祖先なりに、なんらかの見返りをもとめて贈り物をすることである。
この贈り物は、より尊い貴重で珍奇なものであるほうが、贈られる側が喜ぶことは想像に難くない。
奴隷や罪人であるよりも、著名な人物、力のある人物、あるいは、それこそ王に近い存在であるほうが、よりその犠牲は尊いものになるのではないだろうか。
たとえば、稲作において、その年の一番最初にとれた稲穂を神に捧げるように、また遊牧民族の中で、その年生まれた仔蓄の中でもっとも肥え太ったものを神に捧げるように、犠牲には、特殊性(新しいとか、一番良いものであるとか)が必要である。
それは、罪人とか奴隷ではないのではないだろうか、と思うわけだ。

もちろん、殷墟の王墓とおぼしき発掘現場からでてくるおびただしい殉葬者の比較から、腕を縛られ首を切られたいくつもの殉葬者が、美々しく着飾り馬に乗り、または馬車を操って、首をつけたまま埋葬されている殉葬者より尊いものだとは思えない、ということは言えるだろう。
首を切られた人骨がいくつも投げ捨てられるように重なっている犠牲坑などは、犠牲者の身分を云々できるとは思えない。
それでも武王が焼死した紂王に矢を放ち、剣で叩き、鉞で首切ったという伝説から想像するに、王者であろうとも首を切られることは間違いがなく、その首は旗に晒されたと書かれているが、それもまた天への犠牲であろうことは想像に難くない。


殷王朝の支配体系 [中国古代史]

『史記』に描かれている夏という王朝は、まだその実態というものが考古学的に証明されていないのですが、殷に関しては殷墟の発掘で、『史記』に記載されている王に相当する名前を刻んだ甲骨卜辞が山のように発見されているので、存在したことは間違いがないわけです。
しかも最近では、たぶん、夏の王朝があっただろうと思われる偃師県二里頭のすぐ近くにできた偃師商城と、鄭州市の鄭州商城が、殷墟より前、二里頭晩期に並行する形で建設されて、どちらも栄えていたらしいことが、考古学の発展で分かってきています。
そのうえ、この偃師商城と鄭州商城は、殷墟が築かれるより前に、ばたっと閉じられてそのまま放棄されてしまい、小双橋ってところに一時的な都らしきものが築かれたようなのですが、これまた殷墟が建設される頃には放棄されているんですね。

つまり

二里頭(夏の遺跡)→→→→放棄
□□□□□□□□□□偃師商城→→→放棄
□□□□□□□□□□鄭州商城→→→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□小双橋→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□殷墟→→→→殷末まで。
(□は、空白とみなしてください。よろしく)

という流れらしいですよ?
この二里頭とそのすぐ近くの偃師商城、それに鄭州商城とその近くの小双橋は、いずれも黄河沿岸の地の利のよいところで、鄭州は現在でも河南省の省都です。二里頭はそのちょっと西のあたりで、洛陽よりはずっと東ですね。
この洛陽の近くには、孟津(もうしん)といって、黄河を渡る有名なポイントがあったようですが、殷代にはまだ都城が築かれるってことはなかったようなのです。
ということは、殷の支配は洛陽までは及んでなかったって感じでしょうかね。
もちろん、洛陽よりはるかに西の、現在は西安と呼ばれるあたりに、周の一族が根拠地をおいていて、周が殷の部下だった(周西伯などと呼ばれていたようです)ことから、そこまでは殷の支配範囲だと見なすことも可能です。
が、そのころの周って、半独立国っぽい(だからこそ、力を蓄えて、のちに殷を打倒することができる)ような感じもするので、勢力圏ではあっても支配圏ではなかった可能性があります。

実際、勢力の及ぶ範囲と、支配の及ぶ範囲っていうのは、違うだろうというのが、昨今の意見のようです。
つまり、殷代の青銅器の分布をみますと、かなり広範囲に広がっているので、交易があっただろうことは間違いがないわけです。交易というのは、たいがい、これを渡すからこれをよこせってわけで、このやりとりがうまくいかなければ武力で討伐ってことになります。
たとえば、殷からみて西南のあたり、東夷と呼ばれる山東地方や、淮夷と呼ばれる淮河流域あたりには、殷から人方と呼ばれる地域があって、殷で「方」と呼ぶのは、一応、身内扱い(蛮族じゃないよ、ぐらいの意味ですかね)なんですが、何かっちゃ貢献してこなくなるんで軍隊を送っています。
この地域からは、重要な亀甲が産するので、どうしても欲しいんですが、なかなか入手できないみたいなんですよ。
王権が盛んで威力のあるときは、まとめて300枚とかちゃんと奉献してくるんですが、ちょっと力が弱くなると、たちまち送ってこなくなるみたい。
勢力範囲っていうのは、そういうあたりなんでしょうね。
これが、たとえば南は長江(揚子江)中流域の、いまでいうと武漢市のあたりまで。ここには盤龍城という城址遺跡があって、ここから殷の青銅器とほぼ同じものがでていたりして、また土器の編年もその周辺とは違って完全に殷(二里崗式といいます)のものなのだそうです。いわば、殷の出先機関で、そこには生活様式を殷の中央と同じようにしたがる支配者が住んでいたっぽいのですね。
この地域の南側には著名な銅山がいくつもあって、しかも盤龍城の周辺では銅を加工して青銅を作っていたらしい鋳造跡が見つかっているのです。
しかし、青銅器は作っていない。あくまで、銅に錫や鉛を混ぜて、青銅という合金の形にして、殷の中央に送る二次加工の工場ですね。それがあって、その青銅を殷の中央で青銅器に加工していたようなのですよ。
とすると、重要な物資を集積するための場所に、殷の王族っぽい人間が派遣されていて、そこを管理していた構図なんかがみられます。
が、この盤龍城は、殷墟が作られる前に突然滅びて、放棄されちゃってるんですね。
そのあと、殷の中央から新たに派遣されるってことはなかったみたい。

同様に殷の青銅器が分布している範囲というのは、北は内蒙古自治区まで広がっています。南は山東半島の手前あたりまででしょうか。決して広くはないけれど、それでもかなりの広範囲といえます。
ただ、北というのは、もともと、以前から文明が栄えていて、たぶん、文字も北からやってきたっぽいし、騎馬民族が往来していて、文物の流通も盛んだったようなのです。
殷の王族も、北東方向からやってきたっぽい感じがしますしね。
その北東部分、遼西とか遼東とかいうあたりと、黄河上流域の遼寧とか内蒙古あたり、さらにシルクロードの入り口に相当する青海・甘粛あたりは、新石器時代後半から、文物の行き来が盛んで、一大交易ネットワークができあがっていたようなのです。
しかも銅も青銅も青海・甘粛あたりからやってきたみたいだし、遼寧には甲骨文字に先んじる岩画文字があったという報道もあるし、遼西あたりにはかなり古くから玉工芸の栄えた紅山文化というものがあって、そういう、富の集積を前提とする文明は、北方でもかなり広がっていたようなのです。

そして南方には、稲作で栄えた文明が長江中流域にも下流域にもあったらしい。
そういう地域の中には、殷王朝となんらかの接触があった地域もあるし、単に文物の交換だけをやっている地域もあったようです。
そういうのを、勢力範囲というのかどうかもむずかしい。
そのへんの地域には、すでに城址遺跡がいくつも発見されていて、お墓の埋葬具合とか、副葬品とか、あるいは祭祀のための特殊な場所とか、そういう考古学的発見から、原始国家に相当するものができあがっていたんじゃないかと考えられているけれど、文字資料がない。
だから、文字資料ででてくる春秋から戦国にかけての「楚」国なんてのは、本当に蛮族扱いもいいところなのですが、実際には相当な国力があって、栄えていたようなのですね。
そのあたり、殷王朝の一元的支配なんてのは、机上の空論なわけでして、ただ、文字資料を持っているがために実在が確認できる、というだけのことなんです。

じゃ、実際の殷王朝の支配範囲ってどの程度なのか、それは何から分かるのか、そのあたりはまた、項目を改めたいと思います。


殷周と春秋戦国の違いって? [中国古代史]

よく、夏殷周を理想の時代だったという書き方があるわけですが、これはもともと、春秋から戦国にかけて、諸国乱立してお互いに攻め合い、仁義もへったくれもあったもんじゃない状態の時に「昔はよかったなぁ」という感じで書かれているようです。
たしかに、春秋から戦国にかけての世の中というのは、弱肉強食の世界そのもので、そこに住んでる人たちは、いつどこから戦争しかけられるかって、戦々恐々としてたんだろうなぁという感じはあります。
でもその前はじゃあ理想郷だったかっていうと、そうでもないような気がしますよ。

というか、夏とか殷って、本当に狭い範囲しか支配してなかったから、夏だと春秋戦国の弱小国ぐらい、殷でも強国程度の大きさだったようなんですよね。
で、その回りの異民族と言われる国々とせっせと戦争していたわけです。
異民族で東夷北狄南蛮西戎で、だから「征伐」だなんて言い方していますが、なんのことはない、単に戦争しかけてうまく取れれば自分のもの、ダメなら引き返してきますって、春秋戦国となんら変わりはないように思います。
周になると、封建制(←この言葉にはひっかかりを感じるんですけどね)でもって、諸侯があちこちの都市国家に散らばって、それで支配範囲が広がったかっていうと、単に周の認識で「同属(同族じゃないのね)」と見なされるグループが増えたというだけじゃないかしら。
そのあちこちの都市っていうのは、実は新石器時代の後半には作られていた城址をもとに城壁をさらに高くして領主がでんと居すわるって感じなんですよね。
たぶんそれ以前は、こういう都市国家以外の、特に定住地を持たないグループがいたんだけど、殷から周へと広がっていく過程で、こういうグループがどんどん追い出されていって、都市が回りの農村を支配する形ができていくんだと思います。(このへん、西ヨーロッパの中世と似てるかも)
これは、なんというのかなぁ、単にみえないものが見えてくるようになるってのも、ひとつあるんじゃないかと思いますよ。
というのも、殷の時代には、すでに甲骨卜辞ってものがあって、文字は使われていたのだけれど、それは殷王朝内部だけの独占で、文字を使って書を残すという発想ではなかったのですね。だから、外へ向かって文字でもって宣言するっていうのは、殷にはないわけです。
これが周になると、青銅器に金文を鋳込むという形で、文字を使った宣言が、王朝外部に流れていきます。が、文字を鋳込む技術は周王朝が独占していたので、それ以外のところが真似しようと思っても、うまくいかなかったんですね。
でも、周王朝が没落していくと、当然、青銅器鋳造にたずさわる職人たちが四方八方に広がっていくし、文字が分かる人間も広がっていく。そして、諸侯同士で盟書を交わすのに、文字を使うようになってくる。王権に力がなくなるので、勢力均衡した諸侯同士の間で、何をどうしたという内容を文字で残さないといけないわけです。
これも、諸侯と、実際に文字を使って書いたグループはどうやら別らしい。つまり、もともと周王朝がかかえていた文字を書けるグループっていうのが流出していったってことですね。
この背景には、鉄器が普及して農業生産が画期的に増えて、あわせて開墾ができるようになって、土地も広がり、諸侯が自前で力を貯えることができるってのがあるようです。
その一方で、文字はまだ、使える人間が限られているわけで、そうなると、王も含めた領主の力のおよぶ範囲というのは、どうしても限定されます。というのも、文書で命令が出せないので、あまり遠方にいる配下は、いつ独立したり寝返ったりするか、わかんないんですよ。把握できない、ともいいます。理想的なのは、自分の居住する都市から、馬で一日でいける範囲ですね。このぐらいは文字がなくても十分に支配できます。
実は夏王朝の支配範囲がこの程度だったんじゃないか、と言われてます。
殷はもう少し広いようですが、そのぶん、支配が散漫になって、大きくなったり小さくなったりとしょっちゅう支配範囲が変わっていたみたいなんです。
周になると、諸侯って意識がかなりできてきて、これが王の支配に属しているうちは、それぞれの諸侯の支配圏も含めて王の支配圏って言えるんですが、王権は簡単に崩れますから、そうなったらそれぞれの諸侯が半独立するのは当たり前なわけです。
独立させないためには、諸侯に王のもとにやって来させて、王の権威を見せつけ、ひれ伏させ、かつ、褒美を与えて王に服属してるといいことあるよ~と、飴と鞭を使い分ける必要があるわけですが、そのためには、諸侯が王のところにやってこれる距離にいないといけないわけです。それが広がりすぎちゃうんですね。
結果、やっぱり都市諸侯が半独立してそれぞれの地域を支配するわけで、それって実は、夏でも殷でも同じだったんじゃないかなぁって感じです。

以前は、中国の古代といえば黄河文明で、黄河の中流から下流にかけての地域で文明が発達して王国ができてきたって考えられていたわけですが。
現在では、黄河流域にまさるとも劣らない文明が揚子江(長江)流域にも広がっていて、しかも長江流域は稲作農業ですから生産性も高く、それぞれに国家らしきものはできあがっていたようなのです。
すでに殷代には、文明から隔絶していたと言われていた四川盆地にも高度な文明を持つ国家の萌芽らしきものができあがっていましたし、長江中流域には楚のもとになるグループが、下流域には呉越のもととなるグループが、それぞれ城壁をめぐらせた都市をいくつも作っていたわけです。
そこからでてくる出土品も、たしかに夏や殷の影響は受けているものの、地方性も打ち出していて、技術的にも素晴らしいものがあります。ということは、生産性が高くて、余裕があったわけですね。
そういうグループが、たまたま文字を知らないがために、史書にでてこなかっただけ、とも言えるのです。
たまたまでてくるとしたら、夏なり殷なりからみた「蛮族」として一方的な征伐の対象として描かれていたわけですが、実態は違ったんじゃないかなぁって思います。

それが、把握できる範囲が広がって、文字の使用も広がって、お互いの行き来が明確になってくるのが、春秋戦国時代なんじゃないかな、と最近思ってます。


妲己考(その2) [中国古代史]

妲己について、いったいこの人は何者だったのか、そこらへんをもうちょっと突き詰めてみたいと思います。
といっても、どこまでも想像にすぎないわけですけどね。

殷王朝の王さまの名前には、十干が含まれる、ということになっています。
この十干というのは、実は十個の太陽らしいんですよ。
王さまの名前は、史記にでてくるんですが、そのあと、殷墟で発掘された甲骨文字にも同じようなものがあって、ほぼ史記にでてくる人物が実在したらしいということになっています。
殷墟の甲骨文字というのは、武丁という、殷代でも後半の王さまからあとに使われているものらしいんですが、先祖の祭祀を細かくやっていて、それをいちいち記録に残しているので、過去の王さまの名前まではっきりわかるんですって。
いや~、まめだったのね~。
17000あまり発掘された甲骨のうち、解読されたのは二割にすぎないそうですが、それでも3400……すごい分量の甲骨に刻まれた記号が、漢字として解読されるというのは、すごいことではないでしょうか。
それはさておき。

史記に書かれた王様の名前を、甲骨文字から判別している名前の対比を含めて、羅列してみます。

天乙(てんいつ)またの名を成湯、湯王、名は履。父は主癸。
外丙、卜辞では卜丙。
中壬、または仲壬。卜辞には登場しない。
太甲。
沃丁。名は絢ともいう。卜辞には登場しない。
太庚。太康ともいう。名は辨ともされる。
小甲。名は高ともされる。
雍己。
太戊。
中丁。卜辞では仲丁とされる。
外壬。卜辞では卜壬とされる。
河亶甲。名は整ともいう。卜辞では戔甲という。
祖乙。名は勝。卜辞では、仲丁の子とされる。
祖辛。
沃甲。開甲ともされる。名は踰ともされる。卜辞では羌甲とされる。
祖丁。卜辞では且丁ともいう。
南庚。南康ともいう。
陽甲。卜辞では象甲とされる。
盤庚。
小辛。名は頌ともいう。
小乙。名は斂ともいう。
武丁。子に祖己、祖庚、祖辛がいて、卜辞ではこの順に即位したことになっているが、史記では祖己は即位していない。
祖庚。名は躍あるいは曜ともいう。
祖甲。名は戴ともいう。
廩辛。あるいは馮辛。名は先ともいう。
庚丁。卜辞では康丁、あるいは康且丁ないし康祖丁とされる。
武乙。卜辞では武且乙、あるいは武祖乙ともされる。
太丁。あるいは文丁。卜辞では文武丁とされる。
帝乙。卜辞では文武帝乙とも。
帝辛。名は受とも。紂王である。

これらの王さまの名前をみていると、なかなか面白いことがわかります。
この名前、河亶甲を除いては基本的に二字です。それ以外に名前があるというケースもあります。それと卜辞では別の呼び名になってることもある。
ともあれ、ある言葉+十干の一つというのが、基本の名前のようです。
で、ある言葉というのは、祖とか太とか沃とか小とか、いくつか重なる言葉があるみたい。

通常は、十干のほうに注目して、殷の王族は実は10のグループからなっており、そこから王さまを出したので、そのグループ名がついたのではないか、と言われております。
でも本当にそうなのかなぁって思ったりもします。
じゃ、どうして、祖という名前のつく王さまが何人もいるんだろう?
十干の場合は、すでにこの時期に干支が制定されてますから、たとえば生日、あるいは王位についた日の十干を名前にするってこともあるかもしれないと思うのです。
十干を頭にした10の氏族がいた、というのは、なんかできすぎな気がするんですね。

で、頭につくほうを、いわゆる姓と考え、その下に十干を表す言葉がきて、名はほかにもある、というふうに考えるとすると、ちょっと面白いことがあるのです。

それは、卜辞でいうところの羌甲という王さまです。
この王さまについての事歴はほとんどなにも伝わっていません。
じゃ、なにが面白いかというと、羌というのは、よく甲骨文字ででてくる名前だからです。
羌族、といいます。今日まで残っている少数民族です。
もともとは中原のあたりにもいっぱいいたらしい、どうも羊を飼っていた種族らしいのです。
羌というのは、羊の下に人と書きますからね。
これが羊の下に女だと、姜でして、この名字の家というのものちのち重要になります。
で、問題は、甲骨文字においてよくこの名前が使われるのは、「生贄として捧げるのに吉か」という内容が多いのです。
生贄すなわち犠牲です。神の意にかなうために、人間や動物を殺してそれを煮て、神に捧げるという祭祀を、殷の王朝はそれはそれは頻繁に行っていたようなのです。
そして、しばしば、人間については「羌」を捧げることが多かったようです。
そんな「羌」の名前がついた王さまがいる……。
羌族出身の王さまだとしたら、自分の族民が犠牲に使われているわけですよね。
これはどういうこったいってのがひとつ。

それとは別にいくつか面白いのは、この姓に相当する文字で、史記の文字と卜辞の文字がちがう場合。
文字のヘンをはずして旁だけが残る場合。あるいは旁だけの文字にヘンをつける場合。
外と卜、仲と中、祖と且という感じ。
これは読みが同じだったために、ちがう漢字が使われたのかもしれないし、そうではないのかもしれません。
が、羌と姜みたいに、羊の部分が同じで読みも同じ「キョウ」だと、もしかすると同族だったりすることもあるかも?

てなあたりから、想像は飛躍します。
妲己も、妲+己で、二つ目は十干のひとつになってます。
だとすると、妲は彼女の姓なのかもしれません。で、女篇がついてますが、女を取ると「旦」になります。
これが彼女の族名かもしれない。
とすると。
もしかして、周公旦というのも、同じ旦族の人間かもしれないのではないか、と。
周公っていうのは、周の武王の弟とされていますが、本当に血族だったのか、かなり疑問が残るのです。
旦は彼の諱だと言われていますが、もし武王と同族ではなかったとしたら、姫姓ではなく旦姓であった可能性もあるかもしれません。
いや、そもそも、周王と周公と並び立つって、どういうことなのよ?と突っ込みたいですよね。
ま、それはともあれ、周公旦がいないと、武王は殷に勝つことができなかったっぽいのです。
で、彼がもしも旦族の族長で、妲己とは同族だったとして。
紂王に加担する一族の女族長っぽい妲己を見限って、周王に寝返ったとしたら……?

紂王の最後、妲己はその妹とともに王宮にあるらしいのですが、なにもしていません。
かといって逃げ出してもいない。紂王に従って戦にでるわけでもないらしい。
これはどういうことだろうと思うわけです。
そのあと、自殺したあとも、武王に呪術で封じ込められるほどの女性です。殷の武丁の奥さんである婦好は自分の土地があり、自分の兵があり、それを率いて戦に従事したと言われています。
妲己もそれぐらいの力はありそうな気がします。(武王のお父さんの文王は、紂王に幽閉されて、土地や家畜を献上して許してもらったという話なのですが、その際、妲己に賄賂を贈って紂王に取りなしてもらったという説があります。単なる愛妾ではなく、相当に有力な存在だったのかもしれないのです)
だとすると、本来なら自分の民を兵として率いて、紂王とともに戦うような存在だったかもしれない。
だけど、周公旦がその民ごと、武王に寝返っちゃったとしたら、妲己には、自ら使える兵がなく、そのために王宮にとどまらざるを得なかった……かもしれない。
でも、紂王と妲己は刺し違えて死んだわけではないのです。紂王は自ら玉を纏い、焼身自殺しています。妲己のほうはそれを聞いて、首をくくったらしい。
このへん、よくわかんないんですけどね。
妲己には妲己の立場があって、紂王の言いなりというわけではないのだけれど、やっぱり紂王に殉じているわけですね。
紂王も、実際には放埒にふけっていたわけではなく、あちこちに討伐にいったり、武王との戦いも一年以上にわたったということですし、かなりがんばっていたらしいんです。
でも、力及ばなかった。
なぜ、天命が、殷の王家から、周の王家に移ってしまったのか。
これはこれで主要な問題なんですが。
周王っていうのは、そーとーな田舎者で、結果として殷の祭祀をそのまま踏襲せざるを得ないという雰囲気なんですが、ではどうやって、殷の祭祀を踏襲したかっていうと、殷の祭祀に通じている者を味方につけるしかないわけです。
それが周公旦だったんじゃないか、という大胆な仮説を出して、さらに周公旦と妲己は同族だったが、旦が妲己を裏切ったのではないか、というこれはもう妄想ですね。
ま、そんなことを考えているわけです。


妲己考 [中国古代史]

妲己(だっき)といえば、悪女の代名詞です。
「封神演義」になると、もう、妖女ですね。
案外この、妖女説、近いような気もするな、という話を家人としておりました。

実際に、殷の最後の王さまの紂王が、妲己におぼれて国政を省みず、酒池肉林でひどいことした、かどうかは大変に疑問である、とみなさまおっしゃいます。
えぇ、滅びた王朝の最後の王さまというのは、たいがい、ワルモノで、だから、滅ぼした側に正義というか大義があるんだ、という展開は、史書を読んでいればたいがい目につくところ。
逆にいいますと、だから、武烈天皇がいろいろと悪事をしちゃったという展開は、つまり、継体天皇による簒奪だと思われるわけですよ。

さて、それでは実際、紂王ってどんな人だったの?という史実に迫るのは容易なことではないのだけれど、妲己に関しては、ひとつ、面白い事象が残ってます。
それはほかならぬ「史記」に書いてあることなので、ここは抜き書きしてみましょう。

まず「殷本紀」から。定本はちくま学芸文庫の「史記」(小竹文夫・小竹武夫訳)とします。

「周の武王は、そこでついに諸侯を率いて紂を伐った。紂もまた兵を発して牧野に防いだが、甲子の日に紂の兵が敗れ、紂は逃げて鹿台に登り、宝玉で飾った着物を着て火に飛び込んで死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗の上にかけ、妲己を殺し、――(以下略)」

これによると、紂王は自殺して、武王はその頭を斬って、白旗の上にかけたあと、妲己を殺したことになっていますが……。「周本紀」によると。

「紂王は走って引き返し、鹿台の上に登って、珠玉を身につけて自ら火に焼けて死んだ。――(中略)――ついに紂王が死んだ場所へ行き、武王は自ら弓を引いて、三発射ると車を降り、軽呂(けいろ)の剣で屍(しかばね)を撃ち、黄鉞(こうえつ)で紂の頭(こうべ)を斬り、大白の旗の先にかけた。ついで紂王の愛妾二人のところへいくと、二女はくびくくって自殺した。武王はまた三発の矢を放ち、剣で撃ち、玄鉞で斬り、その首を小白の旗に懸けた。――(以下略)」

この周本紀による二人の愛妾の一人が、妲己かどうか、というのが今回のポイントです。
紂王には何人もお妃がいたのだろうと思います。その中でも、特に妲己を寵愛したと言われています。
が、「殷本紀」では妲己は周の武王が自ら殺したことになっている。
「周本紀」で自殺した愛妾二人は、妲己ではないのだろうか、ということになります。
じゃあ、妲己じゃないとしたら、周の武王は、どうしてこの二人の愛妾を、紂王と同じような目にあわせたのか。

死者を鞭打つという言葉がありますが、焼身自殺しても身体が残ってしまうと、のちのち辱めを受けることになります。
紂王の場合、
1.三発の矢を車上から射かける
2.車を降りて、剣で撃つ(これは叩くという意味合いでしょうか)
3.黄鉞(黄色といいますが、これは黄金のようにかな光りしてるんじゃないかと思います。当然、青銅製だろうな)で首を斬る。
4.大白の旗に首を懸ける。
という手順ですね。
で、二人の愛妾はどうかというと、首をくくって自殺しているわけですが、これに対しても
1.三発の矢を放ち
2.剣で撃ち
3.玄鉞(これは黒い鉞ですね)で首を斬り
4.小白の旗に首を懸ける
とあります。
剣の名のあるなしの違い、黄色と黒の鉞の色の違い、白旗の大小の違いはありますが、手順は同じです。
つまり、二人の愛妾は、王と同等の辱めを受けたことになります。

殷の次の周で、西周から東周に遷都し、戦国時代にはいるきっかけとなった幽王という王さまがいます。この人にも、褒姒という笑わないお妃の事例があって、そのお妃を笑わそうといろいろバカなことをやったあげくに滅ぼされたということになっていますが、さてそのあとこのお妃はどうなったかっていうと、幽王を滅ぼした申侯(この人の娘が幽王の正妃だったらしい)が虜にして連れ帰ったと書いてあるんですね。
まぁ、普通、滅ぼされた王さまの愛妾ってのは、そういう扱いでしょう。あるいは自殺したり、首切られたとしても、そのあと、打ち捨てられるのが普通という気がします。
王さまと同じような死後の辱めを受けるという例は、ほかに見ない気がします。

これはどういうことなのか。
まず、この愛妾のうちの一人が妲己だったとしましょう。(いや、妲己でなくてもいいんだけどね。でも、名前が残るということは、どちらにしても有名であったことは間違いないわけだから、妲己でいいと思うわけです)たぶん、もう一人は妲己の姉妹だと思います。
さて、この二人が、紂王と同じような目にあったということは、紂王と同じような悪事をしたということなのか、それとも……。

三発の矢を射かけ、剣で撃ち、鉞(まさかり)で首を斬ってその首を旗に懸ける。

この一連の動作に、呪術的なものを感じるのは、私たちだけでしょうか。
剣は名剣、鉞もそれと知れたもののようです。
当然この剣も鉞も、当時のハイテクたる青銅製の、燦然と輝く武器だったと思います。
青銅製の鉞(えつ)は、殷代のものがいくつも出土していますが、これがまたおどろおどろしい文様なんかがついていて、コメントにも「犠牲の首を斬るためのもの」とあったりします。
鉞で首を斬るというのは、単なる首切りとはちょっと違うようなのですよ。

紂王が行ったとされる酒池肉林。
これは、殷の祭祀に照らして考えると、あながち放埒ではないのかもしれません。
何しろ、殷墟からでてきたおびただしい青銅器の大半は、(まぁそれが墓の副葬品ということもあるけれど)彝器(いき)と呼ばれる祭祀用のものなんですね。
これは、クロキビで作った酒(当時、一番上等だったらしい)をおさめる壺や、これに鬱という草の香りをつけるための壺、さらには酒を温める容器や、酒を注ぐ容器など、酒だけでも何種類もあるのです。
そして、のちに「鼎の軽重を問う」で有名になった、天命を受けた印とされる鼎(てい)と呼ばれる容器、これは三本足の円筒状のものと、四本足の四角い箱型のものがあるんですが、これはどちらも犠牲の肉を煮るための鍋だったことが判明しています。
犠牲の肉を煮るための容器が、天命を意味するとはどういうことか。
つまり、犠牲を捧げることが天の意にかなうということですね。
この犠牲、動物犠牲はもちろんのこと、人身犠牲もたーっぷりあったようです。
周の武王の反乱(あえて反乱といっておこう)にしても、祖父と兄が犠牲にされたからってのが大きいみたいですしね。
殷墟から発掘された卜骨でも、しょっちゅう「羌(きょう)を犠牲にするのは吉か」なんて文字(もちろん、それが甲骨文字です)が見出されるそうですが、殷墟の近くにあって、殷族とはおそらく別の部族だったらしい羌族が、しばしば犠牲になっていたようです。
あるいは戦争に勝ったら、捕虜を犠牲にして天に感謝する、というのも、普通に行われていたようです。
この犠牲というのが、鼎で煮るということで、同時にそこで酒を供するわけですから、それが天に捧げる供物であるとしても、儀式を見守る王および諸侯のあいだで、そのあと饗宴が行われたであろうことは想像するに難くありません。
というか、犠牲の肉を共に食うことで、王に従う諸侯の立場が明確にされるということもあったかもしれない。
あるいは、そういう饗宴に従うということは、王の威徳(この「徳」については、あらためてのちに述べるつもりですが呪術的な意味が強いようです)にひれ伏す意味もあったかもしれません。
そんな犠牲の肉を斬るのは、鉞(えつ)と決まっていたそうです。

周の武王が紂王とその愛妾を、そのあと鼎で煮て天に捧げたかどうかはわかりませんが、その可能性は大だと思います。
というのも、殷の鼎を受け継いだという説があちこちにみられるからですね。
どうもこの、鼎というのは、全部で9個あるらしくて、犠牲の大小によって使う数を変えるらしいんですけど、これがいにしえの代に作られて、代々、天命を奉じる王朝に伝えられたという伝説ができあがったようなのです。
つまり、酒池肉林だったのは、王さまというより、天(神様なのかな? このへんも判断がむずかしいですね)のほうだったようなんですよね~。

さてと、そこで妲己とはなんであったか、ということになります。
紂王にいたるまでの殷の王さまは代々、こうやって天を祀る行為を一手に引き受けていて、だからこその王さまなわけです。
その王さまと同じような目にあわされた妲己というのもまた、この天を祀る祭祀に参加していたのではないか。
いや、妲己がいなければ、そもそもその祭祀は成り立たないぐらい重要な存在だったのではないか。
つまるところ、妲己とは殷の王宮に使える巫女(みこ)のような存在だったのではないか。

なんでここまで解釈が飛躍するかといいますと。

近年、殷墟で、婦好墓という殷代後期のはじめ、ちょうど大量に甲骨文字の刻まれた卜骨が発掘される時代の王さま(武丁といいます)のお妃の墓が発見されたのですね。
幸いに盗掘を免れていたために、ほぼ完璧な形で墓が発見され、おびただしい数の青銅器が出現して、しかもその青銅器に婦好の名前が刻まれていたのだそうです。
殷代に青銅器に文字が刻まれているというのは大変に珍しく、また文字を鋳込んだ青銅器も数少ないので、それは貴重な発見だったわけです。
そして、この婦好というお妃がなんで名前も分かっているかというと、卜骨に彼女がらみの事象がたくさん刻まれていて、特に本人が自ら占いをやったとか、政に関与したとか、あろうことか将軍となって自ら兵を率いて討伐にいったということが分かっているからなんです。
(甲骨文字の刻まれた卜骨というのは、この武丁以降のものしかないんですが、特に武丁時代のものが一番多いらしいです)
つまり、奥方が、巫女で政治にも関与していてしかも将軍だったわけですよ、殷の王さまの。
独立したお墓なんかも作られちゃうわけです。
お墓には殉葬のあともみられ、しかも殉葬者の骨のしたには朱砂がまかれていたという、壮麗なものです。
もしかすると共同統治者である女王にも似た存在だったかもしれません。

中国では一般的に女性が統治者になることを好まず、したがって武則天(唯一の女性の皇帝ですな)もまた、則天武后とあくまで妃として呼ぶ事例が多いぐらいなんですが、古代においてはもう少し女性の地位は高かったようです。
もちろん、すでにお墓の埋葬方法においても男女差が出ていたりはするのですが、それでも、圧倒的に女性の地位が低いというほどではない。
そして、王さまと同じような死後の辱めを受けた女性というのは、王さまに比例する力を持っていたと想像することはできませんか?
その力とは、天を祀る力であり、呪力なわけで、だからこそ怖れられて、後世、悪女の代名詞になったのだとすれば、それはそれで納得がいくような気がします。


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