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天命と徳 [中国古代史]

ちょっと雑感をば。

いやはや、孔子がらみであれこれ調べていたら、違和感ばりばりなのはなんだろうと思ったわけですが、その前は殷代の甲骨文書と青銅器の金文を読んでいたんですよね。
そこから、春秋左氏伝と史記に飛ぶと、ものすごく違ってくるんです。
これはなんだろーって感じです。

たとえば、孔子が「我十有五にして学に志す……五十にして天命を知る」という言葉がありますが、この「天命」って何だろうとかね。
あ、そういえば「学」もね。
「学問」と簡単にいっちゃうけど、そもそも孔子の時代に学問っつー言葉はあるのか、とかね。
どうも「学」という字の旧字「學」は、室内で礼楽の型をひとつひとつ教えられるという意味らしいんですね。
だとすると、孔子が志したのは、ほかならぬ礼楽で、それは十五になるまでは学べなかったのかなぁとか。

ま、それはおいといても、「天命」です。
これをね、「天が孔子にかくかくしろと命じた」という意味に、大体において捉えているわけですよね。
孔子が聖人君子であることを前提として、彼がかくあるべく天が定めたことを、孔子自身が認識した、と。
まぁ、しかしこれが周代の認識で考えると、どうにもあわないわけですよ。
つまり、「天命」というのは、そういう個人個人がどうこうというものではない。
「天」というのは、そもそもが部族神であったものを、殷から周にかけて、全体神として集合していったひとつの理念であって、それは殷とか周とかの国体(変な言い方をしますが、まだ国家というものは存在していないと思うので、部族連合を統率する形ぐらいの意味にとってください)に対して、いわばその統率する権利をバックアップするようなものだったと思われるわけです。
ここに付随するのが「徳」で、これはもともと、「目の力」すなわち、睨む呪力だったわけですね。
この呪力は、殷の王さまに代々つたえられていたことになっていて(実際は、そういう能力をもったものが王になっていたんではないかと思われ)、したがって「徳は血筋で継承する」という認識ができあがってくる。
一方の天命は、周の文王が受けた!と言い張っているもので、それは殷から周に王権が移動した(というのも語弊があると思うけれど、まぁ、そういうことにしておきましょう)ときの周側の主張なわけです。つまり、天は殷が非道であるので、周に王権を受けるように命をくだしたのだ、とね。
この文王(実際にはこの人は、別に王さまになったわけじゃないのよね。ただ、あとから諡したわけです)が天命を受けるというのは、すでに武王の時代には理念として存在したというか、そもそも、武王が殷の紂王を討伐するための大義名分にしたっぽい。
そして、この大義名分の形を作ったのは、太公望の入れ知恵なんじゃないかなぁ、となんとなく思ったりして。
何をどう言い繕おうと、そもそも殷の家臣である周侯(文王も武王もそういう存在だったわけです)が、主人である紂王を殺すというのは、忠義に悖るわけです。(実際に、伯夷叔斉はこれを指摘して、武王に従わないわけですな)でも、紂王は非道なのでこれを倒さなければいけない、という大義名分をもって、勝てば官軍なわけですよ。
そのための「天命」であって、この天命の理論というのは、周代を通じてどんどん理念化されてる気がします。
そして、王が天から命をくだされて、その王がまた家臣に命をくだして、というように、ヒエラルキーに沿って命がおりていくという図式ができあがっていく。
そうやって受けた命というのは、主君のさずけた恩義なのであって、受けた側はおりおりに恩義をありがたく感じながら、これを代々つたえていくのである、と。それが徳なのだ、と。
そういう認識が周代の青銅器の金文から読み取れるというようなことは、小南一郎氏が『古代中国 天命と青銅器』で詳しく説明してくれています。

で、問題は、この認識と、孔子の時代の「天命」や「徳」とのあいだに、かなりのぶれがあることですな。
まぁ、「徳」という言葉に関しては、殷代と周代ですでにぶれがあるので、何をかいわんや、という感じはありますが、それにしても、さらに孔子の時代、あるいは論語がまとめられる時代になると、どんどんぶれていくような感じですね。それが倫理的な意味で用いられることになるってことだと思うわけですが。
もともと「徳」という言葉に倫理的な意味はなかった。それは「天命」もそうです。これは絶対的な力であり意志であり、そこに人心の介在する余地はなかった。そのぐらい「天」は絶対的であるという意味では、ユダヤ的かもしれませんね。だから天命というのも勝手におりてくるものであって、人間のがわには選びようがなかった(これまた、カルヴァンの恩寵予定説みたいなもんですな)と思われるわけです。
が、周の文王が天命を受けるに際して、何やら、文王が身を謹んでいたからくだった、みたいな解釈がされる。この解釈はかなりあとからされるんじゃないかと思うんですけど、とにかく、修身ということが言われるようになるわけです。それ自体、なんつーか、かなり後代のもの、孔子の時代というよりももう少しあとっぽい印象があるんですけど、まぁ春秋から戦国にかけて、さまざまな書が編まれていく中で、このような書を実際に書いて編集して形にしていく史と呼ばれるグループが孔子の弟子である儒教教団と密接な関係をもっていって、やがては儒者が史となる、というような展開がみられるわけですね。そこで、言葉で書き記されて残されるものには、修身的な文辞が使われるわけです。いわく「身を慎んだので王になった」とか「身を慎まなかったので、王を追われた」とかね。
でも、本来、身を慎むとか慎まないとかに関係なく、天命ってのはあったと思われるわけですよ。
そして実際に、身を慎んだらいいことあるのかってーと、あまりそうでもないのが中国の哀しい部分でして。
なんとなく、そのへんを悟ってしまったのが、「天命を知る」だったら、そりゃぁつらいわねぇ……。
いや、もちろん、そうだという確証はありませんが(^ ^;)。


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