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孔子について考える~続き [中国古代史]

ところで、孔子が、母が死んだあと、人に訊ねて父の墓に母を合葬したという話ですが。
人というのは、隣人で、その人が教えてくれたというのがどういう意味かはさておいて。
おそらく、父の家というのは、正妻がいて、そこに子供たちもいたんだと思うんですね。
で、母親を合葬してもよいという許可は、その子供たち(孔子にとって母のちがう兄弟ということになります)が出したことになります。つーか、出さなかったら合葬はできないわな。
そうすると、孔子が父の庶子であることを兄弟が認めたということになって、そこで孔子は孔家の子として認められるってーことではないだろーか。
それが15歳だったとしたら?

なぜかというと、孔家は一応、宋の侯家の分かれってことになってるわけです。で宋侯家の祖先というのは微子啓なんですね。
この微子啓って人は、殷の紂王の庶兄だとされてます。で、この微子というのは、子姓のうち微という殷の先祖神を祀る家系だったんじゃないかと思うんですが、この微子の家系の中に、わかれて、周の王室で史官をやってる家柄があるんです。
史牆盤っていう青銅器があって、その銘文からわかるんですけどね。
てことは、微子の流れを組むってことは、そもそも殷の王室が独占していた甲骨文字の扱いに長けていて、周の王室が独占していた金文鋳造にも通じていて、要するに甲骨文字金文文字が扱える家だったんじゃないかと思うわけです。
で、殷代からおそらく竹に筆で文字を書いていただろうと言われています。筆はもしかすると殷より前からかもしれないとも言われています。
だから、考古学的な発見はないわけですが、甲骨文字や金文資料とは別に、文字書きの伝統はすでにあっただろうと思えるわけですね。
これを王家が独占していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても春秋になると、文字は各国に普及していきますから、当然、それぞれの諸侯が文字を扱える者を召し抱えていたと考えられるわけです。
そして、各地に散らばったと言われる殷人、彼らの中にはそのネットワークを駆使して賈すなわち商人となったものも多いと思うのですが、それとは別に、各国の諸侯のもとで史すなわち書記になったものもいるのではないかしら。
孔氏という氏族は、宋だけではなく衛にもいたようで、孔文子という卿が孔子を引き止めようとして云々という話が『史記世家』にもあります。
で、ながながと話してきたけれど、要するに、孔子の父親の家というのは、魯で史官だったのではないかと思うわけですね。
15の時に、庶子である孔子は、母親の葬儀で本家と連絡がつき、子として認められ、孔氏を名乗れるようになったのではないか。それまでは、要するに彼は顔家の私生児だったのではないか。(母親が顔氏だったのです)
で、史官である本家の仕事をするために、学問をはじめた。それが「学に志す」なのではないか、とまぁ、こんなふうに考えるわけです。
この孔家が季氏の史官だったかどうかは、わかりませんけどね。
『史記』ではこんなふうにいってます。

孔子貧且賤。及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯

孔子は貧しくかつ賤しかった。長ずるに及んで、季氏の史となり、秤の使い方は公平だった。さらに司職吏となり家畜がよく肥えた。これがゆえに司空となったのち、魯を去った。

なんかこう、よくわからない経歴ですよね。
孟子によると、この「史」は「吏」の間違いで、倉庫番だということになってます。
また、「司職吏」というのは、家畜の繁殖係だそうです。
う~む、それから、司空になるって?たしか、司空って、六卿のひとつですよね? 賤しい身分の、士とはいえ底辺ぎりぎりの孔子が、史とか吏とかいう立場から、いきなり司空になるかしらん?
まぁ『史記』によると孔子は大宰相になったみたいだから、そのへんは吹いているかもしれませんが。
それとは別に、『周礼』なんかの記事をみていると、下級官吏に「史」という身分があるようなのですね。これは身分からいうと、上のほうではないけれど、一番下でもないって感じです。
卿が一番上で、その下に大夫がいて、これが上中下といるわけですね。その下が士で、これまた上中下といます。その下に府、史、胥、徒なんていうのがいて、こうなると、足軽に近いのかしらねぇ。
いずれにしても、そんなに高い身分じゃないですね。
まぁ、司空になったといっても、司空の下っぱってことかもしれませんが。
で、「司職吏」というのは、つまり「牛人」である、という説がありますが、この「つまり牛人」っていうのがよくわかんない。
牛人はですね。

牛人:中士二人,下士四人;府二人,史四人,胥二十人,徒二百人。

というふうに『周礼』に書かれてまして

牛人:掌養國之公牛,以待國之政令。凡祭祀,共其享牛、求牛,以授職人而芻之。凡賓客之事,共其牢禮積膳之牛;饗食、賓射,共其膳羞之牛;軍事,共其槁牛;喪事,共其奠牛。凡會同、軍旅、行役,共其兵車之牛與其牽旁,以載公任器。凡祭祀,共其牛牲之互與其盆簝以待事。

まぁ早い話が、祭祀や饗宴に使う牛を養う係ですから、たしかにそのあとの「畜蕃息」というのはわかるわけですけどね。
まぁ、『史記』の話のどこからどこまで本当かなんて、全然わかんないわけですから、細かいことをうろうろ言ってもしょうがないといえばしょうがないんですけど。
気になるじゃありませんか(^_^;)。

でも、なんとなく、孔子は史官の下っぱだったんじゃないかなぁって、思うわけです。
つまり、史官だと、いろいろな書き物を見ることができる。読むことができる。
そこから演繹力と想像力を働かせて(孔子の場合、想像力が豊かだったように思えますのでね)、ここで書かれているのは、あれなんじゃないか、とか、これとこれがこうなら、あれはこうなんじゃないかとか、穴埋めしていくことができると思うんですよね。
ただ、そもそも孔子が参考にした書き物っていうのが、おそらく各国から通達された文書とか、青銅器に鋳造された銘文とか、あるいは各種冊命ですね、君主が臣下になんらかの命を下す時の文書、そんなもんじゃないかと思うわけです。
そのへんは、なんというか、美辞麗句というか、きれいごとというか、ある意味、机上の空論っぽいものだったと思うわけで、それを孔子が真に受けたのかなぁってなんとなく思ったりしています。
殷周の実態なんかを考古学の出土品から考えると、孔子が理想としていた周公の礼とかって、絵空事っぽく思えるんですよね。でもその絵空事の伝承はあったんだろう。そうした伝承は、史と呼ばれる人たちによって書として保管されていて、参照することも可能だったんじゃないかと思うわけです。
ただ、各国にそれぞれ配られていたかというと、それは疑問ですよね。どういうときにどうすればいいか、あるいはこんなことがあったのはなぜなのか、わざわざ孔子に問うことがあるってことは、みんな知らないわけですから。
(そういや、そんな感じできかれて詳しく説明したので、あの人はものをよく知ってると言われた人に、鄭の子産がいますねぇ。孔子がすごく尊敬した人だけど。孔子30歳のときに、子産が亡くなっているんですよ。「30にして立つ」と関係あるのかな?)
ま、そんなことをつらつらと、考えてます。えぇ、妄想ですとも。


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